広瀬郷(読み)ひろせごう

日本歴史地名大系 「広瀬郷」の解説

広瀬郷
ひろせごう

国府こくふ町南部のみや川沿岸を占める中・近世の郷。武安たけやす郷ともいわれた。仁安元年(一一六六)頃の飛騨国雑物進未注進状(宮内庁書陵部蔵)に「武安」とみえ、目代の得分となる庁分物のうち蒔大豆七斗二升の未進の記載がある。当郷は広瀬氏の名字の地であったが、足利幕府に敵対したため闕所とされ、幕府料所として他人に預けおかれていた(応永二七年八月日「飛騨広瀬郷目安案」醍醐寺文書)。康暦元年(一三七九)五月三日広瀬郷は京都醍醐寺理性りしよう院僧正宗助に祈祷料所として預けられ(「足利義満御教書」同文書)、永徳元年(一三八一)三月一二日長日不動供ならびに四季護摩料所としてその知行が安堵された(「足利義満御教書案」同文書)


広瀬郷
ひろせごう

和名抄所載の郷。諸本とも訓を欠くが武蔵国入間郡に同名郷があり、諸本とも「比呂世」とよむ。「大日本地名辞書」は最上川(松川)しら川の合流点、現長井市河井かわいに着目、「河合の義。沙磧平布し、川原一帯、広瀬の言義に合ふ」として河井周辺の米沢盆地北西部、明治二二年(一八八九)に成立した西置賜郡豊田とよた(現長井市)豊原とよはら村・添川そえがわ(現西置賜郡飯豊町)から東置賜郡大塚おおつか村・小松こまつ(現川西町)にかけての地域に比定する。


広瀬郷
ひろせごう

笛吹川と平等びようどう川に挟まれた平坦地に比定される。永禄四年(一五六一)の番帳の二六番に「広瀬の禰き」とあるのは当地の八王子権現神主をさすとみられる。また上原喜兵衛種武の祖先淡路守種西は、武田信玄に仕えて随翁軒を称し、天正三年(一五七五)死去後は長子助之丞の代から当地に住んだというが(甲斐国志)、当地に屋敷あるいは所領を与えられたことを証する史料はない。


広瀬郷
ひろせごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本・元和古活字本に「比呂世」、名博本に「ヒロセ」の訓がある。貞観一四年(八七二)三月九日の貞観寺田地目録帳(仁和寺文書)広瀬庄がみえる。


広瀬郷
ひろせごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、伊勢本・東急本・元和古活字本の訓「比呂勢」から「ひろせ」と読む。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条、高山寺本「和名抄」駅名広瀬駅がみえ、駅馬数は五疋。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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