弘安礼節 (こうあんれいせつ)
1285年(弘安8)に亀山院の評定において一条内経らによって定められた公家の礼節に関する規式。内容は,大きくいって書札礼,院中礼,路頭礼の三つからなるが,古文書学上重要なのは書札礼である。亀山院政に先立つ後嵯峨院政は,中世的公家政治体制が確立された時期であるが,また書札様文書である院宣(さらに綸旨(りんじ)も)が政治文書として市民権を得た時期でもある。書札は本来親しい間の通交文書であったが,政治文書となった院宣,綸旨,御教書(みぎようしよ)は親しい者にだけでなく,不特定のものに与えるようになる。そこで,一般に通用する公の書札礼が要求されていたのであるが,《弘安礼節》はこれにこたえるものであり,中世はおろか近世まで遵守される書礼となった。《群書類従》所収。
執筆者:富田 正弘
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弘安礼節
こうあんれいせつ
有職故実(ゆうそくこじつ)書。1巻。『弘安礼法』『弘安制符』など各種の呼び名がある。本来定まった書名がなく、弘安年間(1278~88)に定められた礼法という意味で、現在の書名となったものと思われる。内容は、書札礼(手紙を書くときの礼法)や路頭礼(道で貴人に出会ったときの礼法)などで、1285年(弘安8)12月、亀山(かめやま)上皇が重臣たちの意見を聞いて定められたものという。とくに書札礼に関する規定は、室町時代以降に編纂(へんさん)された各種の書札礼の書物のよりどころとなった。国立国会図書館に南北朝時代初期の古写本があるが、『群書類従』所収本が一般に流布している。
[今江廣道]
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弘安礼節
こうあんれいせつ
『弘安礼法』『弘安格式』『弘安書礼』ともいう。貴族社会の礼儀作法を規定した書。1巻。一条内経,花山院家定,二条資季を編者とし,代表的な貴族 20名余の協議のもとに制定されたといわれる。一説には,一条家経,花山院定雅,二条資季を編者とする。手紙を書く場合の作法,宮中や街頭での礼法などを定めたもので,このうち手紙の作法は書札礼 (しょさつれい) といわれ,室町時代以降作られた各種の書札礼の手本とされた。『群書類従』所収。
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世界大百科事典(旧版)内の弘安礼節の言及
【上所】より
…平安時代になると,目上の人に対しては進上,同輩に対しては謹上というように,用いる文字がある程度定まってきた。これをさらに詳しく定めたのが,鎌倉時代にできた《[弘安礼節]》である。すなわち差出人と受取人との身分の差に応じて,進上と書くべきもの,謹々上ないし謹上と書くべきもの,上所の必要のないものを,その書止め文言とともに示している。…
【古文書学】より
…書札礼の早いものに平安末期の《貴嶺問答》があり,その後多数の書物が作られている。とくに1285年(弘安8)制定の《弘安礼節》は後宇多天皇の勅撰であり,書札様文書が国政上最高の地位をしめるにいたったという事態に相応ずるものである。室町幕府は足利義満のときに公武両権を統一した全国政権として君臨することになるが,その義満の命で《書札法式》が制定された。…
【書札礼】より
…これは親王が藤原忠親,三条実房に尋ねたことを記したもので,当時の書札礼の集大成である。 鎌倉時代になると《書札礼付故実》が著され,1285年(弘安8)には《[弘安礼節]》が撰定される。これは亀山上皇の意を奉じて,前関白一条内経らが編纂したもので,大臣,大納言,中納言,参議,蔵人頭以下それぞれの在任の者が,他の官職を有する相手に書札を出すとき守るべき書礼を述べたものである。…
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