改訂新版 世界大百科事典 「心身問題」の意味・わかりやすい解説
心身問題 (しんしんもんだい)
mind-body problem
心身問題は古来,霊と肉,魂と身体の問題として,宗教や日常の場で絶えず顔を出す問題であったが,また量子力学での観測問題や大脳生理学ではいまだに人を悩ましている。もちろん哲学ではそれぞれの哲学の性格をきめるほどの基本問題であったし,今でもそうである。この問題の大筋は,まず人間を心と体に分け,その上でこの心と体がどう絡みあっているのかを問うことである。ところがその絡みあいの仕方についての各種各様の考えのどれもが満足のゆくものではない。そこでそもそも心と体を分けるのがまちがっているのではないかということになる。しかし心身分離には生活に根ざした強い動因がある。
心身分離の動因
まず記憶や想像である。すでにない過去やいもしない怪獣はこの物質世界には存在しない。そこでそれらの記憶や想像は〈心の中〉にあるほかはない。ここで唯物論者といえどもそれらは脳の中にあるなどとはいえない。脳の中をいくら探してもゴジラなどはいないからである。また喜びや悲しみといった感情はまったく非物質的に思える。感情は心的なものとして心の中にある。さらに希望や意志,欲望や願望はまだないものに対する希求なのだからこれもまた心的である。一方,知覚の場でも幻とか各種の錯覚がある。そして同じ一つの物を見ても各人各様に見える。このことから物の〈見え姿〉もまた各人の心の中にあるといいたくなる。こうして人はごく自然に物に対する心的なもの,という考えに導かれ,心を悩ませたり心に秘めたりすることになる。
心身の絡み
こうしていったん心的なものが抽出されると今度はそれと物的なもの,なかんずく身体との関係が問題となる。こうした心的なことがらと身体とが強く連関していることはだれの目にも明らかだからである。精神的ストレスが胃潰瘍を起こしたり,野球選手が気力でホームランを打ったりすることなどはしばしば見られるところである。そこで〈心↔身〉の一方向きあるいは両向きの相互作用説interactionismが提出される。しかしその作用がどんな仕掛けで起こるのかを納得のゆく形で答えた人はない。その代表者であるデカルトも,身体と心の絡みの中心を松果腺としただけで,松果腺と心の絡みを説明できなかった。そこで,そのような作用はない,心と身体とは二つの時計のようにうまく調子がそろって平行しているのだ,というのがフェヒナーが平行論Parallelismusと名付けたものである(心身平行論)。その一変種として,主役である身体とくに脳の動きに心が随伴するという随伴説epiphenomenalismがある。いずれにせよここでも心身を平行させる機構については何も語ることができない。その平行を単に事実として受けとめよというのである。
心身分離の否定
そこで心身の絡みの前提である心身分離を否定する考えが生じるのは当然である。スピノザ,マッハ,アベナリウス,ベルグソン,ストローソン,そして最近ではスマートJ.Smartの心脳同一論等がそれである。しかし上に述べたように,心身分離には自然で強い動因群がある。その一つ一つを説得しなければならないのに,これらの一元論者はそれを果たしていない。そこでそれをここで--大筋だけだが--試みる。まず記憶の場合には,記憶が過去の〈像〉であるという誤解を取り除く。ある記憶が何かの像だとするならば,それが〈何の〉像であるかが承知されていなければならない。するとその〈何か〉は,過去の何かそのものであって像ではない。すなわち過去そのものが登場していなければ,記憶は何の記憶像であるかがわからない。そして過去そのものが登場しているのならば,その〈像〉は無用無益である。結局,記憶とは過去そのものの登場であり,したがって心的な像ではない。また感情も心の中のものではない。例えば恐れの感情は心の中にあるのではなく,当の恐ろしい物の相貌なのである。怖い物から恐れの感情だけを引き剝がして,心の中に分離することはできない。そして冷や汗や足のすくみが心の中のことではないことはだれもが知っている。結局恐ろしさは外部の物的状況の中にあるのであって,心の中にあるのではない。
存在概念の拡張
期待や想像の場合はどうか。想像された桃太郎はどこにいるかといえば,どこかの陸地の上にいるのであって,心の中にいるのではない。それは現実の人間ではない。しかしその居所は外部空間の中であって,心の中などではない。それは〈想像上の人間〉として外部空間に存在する。予定され期待されているビルもまた,外部空間の中に存在する。それは現実のビルではない。しかし数年の先という時点,何丁目何番地という地点に〈未来のビル〉として存在する。したがって心の中などにあるのではない。以上のような仕方で心身分離の動因を解毒するには,存在概念を拡張して,過去や未来,そしてさらに想像の事物まで存在に組み入れることが必要である。枯尾花が幽霊に見えたとすれば,その時点では幽霊は存在した,外部空間に存在したのである。そして通常の存在概念はこの拡大された存在概念の中での一分類項となる。こうして非情無情の物質世界の中に居所不明のエアポケットのような〈心〉があるという心身分離の図柄から,有情の時空世界の中を有情の身体が動くという図柄に移行する。そしてこの後者の図柄の中では,心身の絡みあいの問題は生じない。
人間像の変革
この新しい図柄の中で科学の描く人間像も,新しい解釈を必要とする。とりわけ外部刺激が脳に作用して世界風景が見え聞こえるという生理学公認の事実の再解釈が必要である。視覚を例にとる。まず視覚の風景が〈見透し〉構造をもつことに留意する。前景を透して中景が,そしてそれらを透して遠景が見えるという構造である。このとき前景に変化がおきる。例えば色ガラスを置くとか霧がまくとかすれば,それ以遠の風景が変化する。これは因果作用ではない。前景から遠景へ因果的作用は生じていないからである。それは因果作用ではなく,前景の変化〈即ち〉中・遠景の変化という,〈即ち〉の変化である。さて視覚風景を前景の方にたどると眼球,網膜,視神経,脳となる。それらに変化が生じるとそれ以遠の風景に変化が生じるというのが生理学的事実だからである。ただそれらは正常な場合には視覚的には空気と同様に〈透明〉なのである。こうして脳に変化が生じれば視覚風景に変化が生じるのは因果作用ではなくて〈即ち〉の変化であると解釈するのである。以上に見られるように,心身問題とは人間像の変革を要求し,またそれに導く問題なのである。
→体 →心
執筆者:大森 荘蔵
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