志麻郡・志摩郡(読み)しまぐん・しまぐん

日本歴史地名大系 「志麻郡・志摩郡」の解説

志麻郡・志摩郡
しまぐん・しまぐん

筑前国西端に位置し、東は博多湾、北と西は玄界灘に臨み、南は怡土いと郡に接する。近世の郡域はおよそ糸島いとしま志摩町、前原まえばる市の北部、福岡市西区の北西部に相当する。

〔古代〕

「延喜式」民部上は「志麻」、「和名抄」のうち高山寺本・名博本は「志麻」、伊勢本・元和古活字本は「志摩」、東急本は両様に作る。同書の越中国新川にいかわ郡志麻郷の訓「之万」(東急本)、九条家本「延喜式」民部上の傍訓シマ」から「しま」と読む。「日本書紀」推古天皇一〇年四月一日条に、新羅征討のため来目皇子が筑紫に至り、「嶋郡」に駐屯したとあるが、当時郡制は施行されておらず、書紀編者の修飾と考えられる。郡名の初見は現存最古の戸籍の一つである大宝二年(七〇二)の筑前国嶋郡川辺里戸籍(正倉院文書/大日本古文書(編年)一)で、そのなかに当郡の大領「追正八位上勲十等肥君猪手」の大規模な戸が含まれており、承和八年(八四一)正月一六日の筑前国牒案(堂本四郎氏旧蔵文書/平安遺文一)にも「志麻郡大領肥公五百麿」の名がみえるので、その後も肥君一族の勢力が保たれていたと考えられる。「続日本紀」和銅二年(七〇九)六月二〇日条に「嶋郡少領従七位上中臣部加比」に中臣志斐連を賜姓した記事もある。郡名はおそらく和銅六年五月に郡名・里名に好字を付けさせるようになって以降、「嶋」一字から「志麻」二文字へと表記するようになったのであろう。「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一一月一一日条は、当郡の調品目変更にかかわる史料である。従来は調綿に代えて「調銭」を納めさせる記事と理解されてきた。しかし最近の研究により、古写本である三条西家本に従って「調銭」ではなく「調鉄」を納めさせる記事であると考えられるようになり、「延喜式」主計上に筑前国の調品目の一つとして鉄が規定されている点や、後述する現西区の元岡もとおか桑原くわばら遺跡群で発見された製鉄遺構や関係木簡、あるいは当郡の韓良からかぬち郷の郷名などと併せて整合的に理解できるようになった。「三代実録」貞観元年(八五九)正月二二日条には「筑前国志麻郡兵庫」の鼓が自然に鳴り、庫中の弓矢が音を発した旨を大宰府が言上したとある。同書の新訂増補国史大系本文は「志摩郡」とするが、同条頭注によれば「摩、原作麻、今従印本」とあるので、「志麻郡」のままでよいと考えられる。前述した川辺里戸籍から知られる氏姓は、肥君七八名、宅蘇吉志二名、生君二名、卜部八四名、物部六三名、葛野部四三名、大家部二五名、建部一九名、大神部一二名、中臣部一一名、搗米部一〇名、己西部(許西部・許世部)九名、額田部六名、生部四名、難波部・秦部・宗形部各二名、出雲部・宇治部・吉備部・久米部・宗我部・財部・多米部・平群部各一名で、当郡や周辺郡の郡郷名に関係するものが見出される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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