慶俊(読み)けいしゅん

改訂新版 世界大百科事典 「慶俊」の意味・わかりやすい解説

慶俊 (けいしゅん)

奈良時代大安寺の僧。慶峻とも書く。生没年不詳。河内葛井(ふじい)氏の人。731年(天平3)大安寺の請経牒(しようきようちよう)(借りたい経典の名を記す文書)に自署し,751年(天平勝宝3)東大寺写経所目録は慶俊所持の経典中で借りたいものの名を記す。753年4月大安寺仁王会講師18人中に名をつらね,同8月法華寺の文書に同寺大鎮として署名し,756年律師と記される。道鏡によって排斥されたが,770年(宝亀1)復任し少僧都(しようそうず)となる。
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朝日日本歴史人物事典 「慶俊」の解説

慶俊

生年:生没年不詳
奈良時代の僧。「けいしゅん」ともいう。延暦年間(782~806)に没した。河内国丹比郡(大阪府藤井寺市付近)の渡来系氏族葛井(藤井)氏の生まれ。同氏や船氏,津氏は西文氏につながる氏族で河内南部に居住し,伝統的に仏教と縁が深い。光明皇后の母県犬養橘三千代の本貫地河内国古市郡とも近い。慶俊は出家後大安寺に属し,入唐僧の道慈を師として三輪,法相,華厳などを学ぶ。華厳講師などを経て,天平勝宝5(753)年には法華寺(光明皇后の宮を寺院とした宮寺を起源とする)の大鎮となる。同8年,聖武天皇の死に際して「聖代の鎮護に堪え,玄徒の領袖たり」と讃えられ,律師に任じられた。こうした昇進の背景には学問的教養のほか,光明皇后,藤原仲麻呂との強い連携が想定される。慶俊は仲麻呂政権の崩壊とともに失脚,道鏡の没落後,律師に返り咲いた。<参考文献>佐久間竜『日本古代僧伝の研究

(鷺森浩幸)

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百科事典マイペディア 「慶俊」の意味・わかりやすい解説

慶俊【けいしゅん】

〈きょうしゅん〉とも読む。奈良時代の大安寺の僧。河内葛(藤)井氏出身。731年以降の経典の借用申請者,あるいは経典を写経所に貸した人物として慶峻・敬俊などと見える。756年学業を称され律師(りっし)となり,766年道鏡(どうきょう)によって排斥されたが,770年少僧都(しょうそうず)となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「慶俊」の解説

慶俊(1) きょうしゅん

?-? 奈良時代の僧。
河内(かわち)(大阪府)の人。奈良大安寺の道慈から三論,法相(ほっそう),華厳(けごん)をまなぶ。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753)法華寺の大鎮となり,8年律師。一時道鏡にその座を追われるが,宝亀(ほうき)元年復帰して少僧都。天応元年光仁(こうにん)天皇から山城(京都府)の愛宕(あたご)山をあたえられ,修験道場をひらいた。俗姓は葛井(ふじい)(藤井)。法名は慶峻ともかく。著作に「一乗仏性究竟論記」。

慶俊(2) きょうしゅん

?-? 朝鮮の製紙技術者。
豊臣秀吉の朝鮮出兵のさい加藤清正に連れられて来日。肥後芋生(いもう)川原谷(かわはらたに)(熊本県鹿北(かほく)町)で和紙の生産に従事した。子孫が技法をうけつぎ,熊本藩の御用紙漉(かみすき)として保護され,近隣にひろまり,芋生(川原)紙とよばれる。弟の道慶は,木葉村浦田谷(玉東(ぎょくとう)町)にすみ,浦田紙の祖となった。名は慶春とも。

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