法華寺(読み)ほっけじ

精選版 日本国語大辞典 「法華寺」の意味・読み・例文・類語

ほっけ‐じ【法華寺】

[1] 〘名〙 奈良時代に設置された国分尼寺(法華滅罪之寺)の略称。
[2]
[一] 奈良市法華寺町にある真言律宗の尼寺。天平年間(七二九‐七四九)光明皇后が父の藤原不比等の邸宅を寺に改めて創建し、総国分寺の東大寺に対する総国分尼寺とした。本尊の十一面観世音菩薩立像(木造)は光明皇后がそのモデルと伝えられ、平安前期(九世紀)の作で国宝。法花寺。法華滅罪之寺。氷室(ひむろ)御所。比丘尼御所
[二] 中国の唐代、永州(湖南省零陵県)にあった寺。宋代には万寿寺、明代には高山寺といった。

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デジタル大辞泉 「法華寺」の意味・読み・例文・類語

ほっけ‐じ【法華寺】

奈良市にある真言律宗の尼寺。天平年間(729~749)光明皇后が父藤原不比等の邸宅を寺として、総国分寺東大寺に対し、総国分尼寺として開いたもの。本堂は慶長6年(1601)豊臣秀頼の再建。本尊十一面観音立像は平安初期の作で国宝。法華滅罪之寺。氷室ひむろ御所。

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日本歴史地名大系 「法華寺」の解説

法華寺
ほつけじ

[現在地名]奈良市法華寺町

平城宮跡の東にある。真言律宗。本尊十一面観音。古くは法花寺とも書き、正しくは法華滅罪之ほつけめつざいの寺といった。「拾芥抄」では京法華寺として十五大寺の一つとされている。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔沿革〕

平城京の左京一条二坊の地は、藤原不比等の旧邸宅があったところで、光明皇后はここを皇后宮とし、天平一七年(七四五)五月一一日に宮寺に改めた(続日本紀)。この宮寺が法華寺の始めと考えられる。寺名の初見は、同一九年一月二〇日の別当皇后宮舎人秦浄足の名がみえる法華寺政所牒(正倉院文書)で、当寺が大和の国分尼寺になったのはこの頃であろう。ただし東大寺の阿弥陀院をもって最初の国分尼寺にあてる考え方もある。法華寺の造営は造法華寺司によって行われた。天平宝字二年(七五八)六月四日に、造法華寺判官従六位下余東人等四人に百済朝臣の姓を賜っているから(続日本紀)、この頃すでに造営がかなり進んでいたとみることができる。伽藍が完成したのは延暦元年(七八二)頃で、同年造法華寺司は廃された。なお光明皇后の熱心な阿弥陀信仰は、別に阿弥陀浄土あみだじようど(現奈良市)の建設となった。天平宝字四年六月七日、皇太后はその竣工を待たず死去した。しかし同年一二月には造営を終わり、皇太后の一周忌斎会は完成した阿弥陀浄土院で行われた(続日本紀)

完成当時の法華寺伽藍は東西両塔・金堂・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・中門・東門・南大門などがあり、その南に七間四面の阿弥陀浄土院があった。「続日本紀」天平一三年三月二四日条に、国ごとに金光明四天王護国之寺と法華滅罪之寺を置くとの詔勅が記されている。光明皇后本願の法華滅罪寺はやがて総国分尼寺として諸国の国分尼寺を総括するようになった。平安遷都後、奈良の諸大寺のなかにはしだいに衰微の兆候を表し始めたものもあった。法華滅罪之寺は諸国分尼寺の中心としてなおその地位を保ち、平安時代の初め頃には、入寺する尼僧があまりにも多いので、延暦一六年には勅許がないかぎり入寺することはできないようになった。しかし平安時代も後期になると律令制の衰退とともに打撃を受け、荒廃した堂宇の修理も意のままにならずしだいに衰微していった。「扶桑略記」によれば、昌泰元年(八九八)一〇月二三日に訪れた宇多上皇が法華寺堂舎の破壊を見て嘆息したことを記している。そのうえ治承四年(一一八〇)には平重衡によって東大寺・興福寺などの主要建物が焼失したが、法華寺もこの時かなりの被害を受け、それ以後復興することもできず荒廃の一途をたどった。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]今治市桜井

法花寺とも書く。桜井さくらい小学校・中学校の裏、引地ひきじ(寺山)にある。補陀洛山と号し、真言律宗西大寺派。本尊十一面観世音菩薩。なお桜井石風呂薬師堂は法華寺の境外堂である。明治一三年(一八八〇)の「伊予国越智郡地誌」には「境内東西三拾五間、南北壱町、面積千九百拾坪」とみえる。もとは、古寺などの小字がある桜井小学校の敷地にあったと推定され、現在地に移ったのは寛永二年(一六二五)と伝えられている。文禄四年(一五九五)法華寺住持教尊によって書かれた「伊予国越智郡桜井郷補陀洛山法華寺来由」に「寺地ハ要害山、上ハ釣(瓶)山両城之山下也」とみえ、年代不詳の法華寺古図にも、要害山(城)・釣瓶山(城)を背に、重層入母屋の金堂、楼門三、僧房などが描かれている。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]甲府市武田一丁目

県道甲府―敷島しきしま―韮崎線の北側にある。藤光山と号し、日蓮宗。本尊は日蓮上人像。天正二年(一五七四)武田家により建立され、開基は大明院日という(寺記)。同五年閏七月一六日には武田勝頼からかん村のうち一〇貫文と棟別一間が養周院寺産として寄付された(「武田勝頼判物」法華寺文書)。養周院は永禄四年(一五六一)川中島合戦で討死した武田信玄弟典厩信繁の後室で、天正五年頃までに当寺に入ったものか。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]三島町蓮花寺

蓮花寺れんげじ集落を北流する小木城おぎじよう川右岸の山手にある。真言宗豊山派、微妙山奥之院と号し、本尊如意輪観世音菩薩。霊亀二年(七一六)の開創、開基は行基と伝える。開創当時は蓮華部れんげぶ寺と称し、字いたさわの通称寺山てらやまに寺基があったといい、現在でも観音屋敷かんのんやしき本堂跡ほんどうあと鐘堂跡かねどうあと餓鬼清水がきしみずなどの地名が残り、観音屋敷からは基石が出土し、寺山頂上には祭壇に用いられたと推定される方形の塚が残る。弘仁一四年(八二三)板ヶ沢から現在の地字油田あぶらでんに移転。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]高山市天性寺町

しろ山の北方、江名子えなこ川右岸の高台にあり、素玄そげん寺南方に位置する。常栄山と号し、法華宗陣門流。本尊は釈迦如来。寺伝によると、越後国蒲原かんばら本成ほんじよう(現新潟県三条市)の住持日扇は高山からみや川の下流にあたる吉城よしき広瀬ひろせ(現国府町)出身で、出身地に法華宗道場がないことを憂い、徒弟日襄を布教のため飛騨に遣わした。永禄元年(一五五八)日襄が当地に道場を建て、本行ほんぎよう院と称したのが始まりといい(斐太後風土記)、天正一六年(一五八八)現在の山号・寺号に改めたという(飛州志)

法華寺
ほつけじ

[現在地名]岩槻市飯塚

元荒川右岸に位置。霊雲山と号し、臨済宗円覚寺派。寺伝によると、延長二年(九二四)に天台宗寺院として創建され、鎌倉時代末期に臨済宗へ改宗したという。中興開山は法眼是徹。当寺は元弘三年(一三三三)一二月、建武の新政に際して後醍醐天皇から寺領の安堵を受けたが(同月一二日「後醍醐天皇綸旨」寺蔵文書)、翌建武元年(一三三四)二月には寺領が大河原又三郎に押領されたとの是徹の訴えにより、足利尊氏が上杉重能に寺領保護を命じている(同月六日「足利尊氏御判御教書」同文書)。以後一世紀余りの動向はつまびらかでないが、境内の堂に「住持是歓 聖禅悦(花押) 仏所相州住人民部(花押) 于時長禄五年辛巳十月十六日」の墨書銘をもつ木造地蔵菩薩半跏像があり、寺伝ではこの是歓(大州是歓)を中興二世、次いで英玄昇を三世としている。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]堺市甲斐町東五丁

祥雲しよううん寺の北側に位置する。本門法華宗、山号卯木山、本尊十界大曼荼羅。俗に「柳の寺」という。延文元年(一三五六)日輪が堺郊外で草創。当初法華庵と称していたが、大檀越満田盛讃が南大小路みなみおおしようじ町に移転させて法華寺とした。一二坊の塔頭を有する中本山であった(寺蔵由緒書)。日輪は京都妙顕みようけん寺日像の弟子と伝える。享禄三年(一五三〇)法華寺学文領法度条々事(寺蔵文書)なる寺法が定められた。これは僧侶修行養成期の学寮の入寮に関する規定や心得を条文化したもので、善重ぜんじゆう坊・浄照じようしよう坊・定善じようぜん坊・正乗しようじよう坊など一二塔頭が書判を押している。天文五年(一五三六)京都で比叡山衆徒が日蓮宗寺院を排撃する、いわゆる天文法華の乱が起こり、日蓮宗諸本山は堺へ避難したが、当寺へも妙蓮みようれん(現京都市上京区)が寺基を移し避難所として三年間過ごした。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]檜山郡江差町字本町

日蓮宗寺院。成翁山と号し、本尊釈迦如来。宝暦一一年(一七六一)の「御巡見使応答申合書」に成翁山成翁せいおう寺とみえ、本寺は本満ほんまん(現京都市上京区)、大永元年(一五二一)松前の法華寺と同時に上ノ国に草創された。その後本満寺の日尋が江差村に再興したという。「福山秘府」によると、大永元年に建立され、承応年中(一六五二―五五)に再興された妙光山法華寺と、寛文一一年(一六七一)に建立された寺があったが、この二寺が同一三年に合併して成翁寺と号した。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]松前郡松前町字豊岡

近世の松前城下に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると、海沿いの枝ヶ崎えだがさき町から坂を上り切った所に位置し、西は馬形宮。日蓮宗、妙光山と号し、本尊日蓮聖人像。宝暦一一年(一七六一)の「御巡見使応答申合書」は大永元年(一五二一)草創とし、「福山秘府」は同年建立、承応年中(一六五二―五五)再興とする。一説に大永元年から享禄二年(一五二九)頃、海外伝道者日持(日蓮の六門弟の一人)を思慕して渡道した京都本満ほんまん寺塔頭玉持ぎよくじ(現京都市上京区)の久遠院日尋が建立したと伝える(寺院沿革誌)。日尋の渡道直前の永正一六年(一五一九)本満寺の法雲院日が渡道し、帰洛後同寺の外護者近衛尚通に昆布五〇束と夷筵一枚を進上したという(松前町史)

法華寺
ほつけじ

[現在地名]萩市大字恵美須町

地元では法華ほつけい寺とよぶ。恵美須えびす町の北東、塩屋しおや町との境に位置する。日蓮宗。松原山と号し、本尊は十界大曼荼羅。

寺伝によれば開山の下総中山法華なかやまほつけ(現千葉県市川市の法華経寺)一一世日典は安芸国広島で毛利輝元の帰依をうけ、慶長九年(一六〇四)萩に来て当寺を建立したという。山号はこの地が阿武の松原とよばれた砂浜であったことによるといわれる。近世は防長二州法華第一座であった。

明暦四年(一六五八)二月一五日いわゆる法華寺騒動が起こった。寛永一八年(一六四一)渡辺宣なる者の父が当寺で山村松庵(萩焼の開祖李勺光の子)と碁を打って争い、負傷して死亡したため、宣がその一七回忌に法華寺門前で松庵を討ち果した事件である。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]稲沢市法花寺町 熊の山

大齢山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。境内五二七坪。国分尼寺と想定される旧法華寺の跡地に永正年中(一五〇四―二一)無味禅公が才赦桂林を招請して一宇を建立し大鈴山国鎮こくちん寺と号したが、織田氏の兵火に遭い、残った一草堂を白山の修験者が鎮守白山社(現在日吉神社の境内社)の傍らの現在地に移したと伝える。その後、越前国南条なんじよう高瀬たかせ(現武生市高瀬町)大白山宝円ほうえん寺竜嶽元徐を招請し、大齢山谷椿こくちん寺と改め宝円寺末となったが、元禄一三年(一七〇〇)国鎮寺と旧号に復し、法華寺の名は地名に残り、俗に国分寺の奥院とよんだ。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]東区東桜二丁目

東門前ひがしもんぜん町から法華寺ほつけでら町を北へ入った西側にあり、啓運山と号し、もと日蓮宗本圀ほんこく(京都)の末寺で、本尊は法華経題目宝塔。延徳年中(一四八九―九二)織田常勝が清須きよす(現西春日井郡清洲町)に創建、日授を開山とした。五世日陽は信長の崇敬を受け、岐阜城内に同じく法花ほつけ寺を建て、江戸中期まで住職は両寺を兼ねた。信長が安土に移るに及び、日陽は尾張に帰り、天正七年(一五七九)安土宗論に敗れて廃滅の危機に陥ったが、信長に願って再興を許され、清須越しのときこの地に移った。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]貴志川町北山

御茶屋御殿おちややごてん山の南東麓にあり、北山きたやま集落の北東にあたる。高幡山と号し、日蓮宗。本尊は十界大曼荼羅。「紀伊国名所図会」によれば、鳥羽院の妃美福門院の開創で、古くは御茶屋御殿山の中腹にあり、高幡山興善こうぜん寺と称したという。「続風土記」に「元和封初、清水村に別館を築き給ひし時、小亭を此山上に造らるゝに因りて、寺を今の地に移さる、後享保年間改宗して法華宗となり、寺号をも今の名に改めしなり、境内に観音堂あり、此堂も旧は高幡山の上にありしを、元和二年此処に移せりといふ」とあり、改宗以前の本尊であった如意輪観音像の台座銘には「当山開基慈眼院日眼(花押)正保三丙戌年九月十八日」とみえ、この頃、慈眼院日眼が興善寺を日蓮宗法華寺として現在地に再建したものと思われる。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]田原町野田 柳橋

野田のだの東入口国道二五九号の南三〇〇メートルの田園中にあり、柳橋山と号し、法華宗。本尊南無妙法蓮華経釈迦牟尼仏・宗祖奠定大曼荼羅。境内九八〇坪。旧本山である遠州吉美きび(現湖西市)の「妙立寺旧記」に、文安元年(一四四四)参州野田村に一宇の祖師堂を建立するとあるが、開創の人名は不明、四世日栄の代にあたる。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]盛岡市北山一丁目

源勝げんしよう寺の東隣に位置する。上行山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来。開山は日什、開基は日慶とされ、法華宗の京都妙満みようまん(現左京区)末寺であった(「盛岡砂子」など)。もとの寺地は源勝寺とともに光台こうだい寺境内の西にあり、寛文三年(一六六三)源秀院(南部利直の妻)の葬地となったため、源勝寺とともに引料米一〇〇駄を与えられ現在地に移転(盛岡砂子)

法華寺
ほつけじ

[現在地名]柳田村柳田

日詰脇ひつめわきにあり、瑠璃山と号し、高野山真言宗。本尊薬師瑠璃光如来は秘仏である。初め当目とうめ村にあり、日の御前ひのごぜん(舞谷)宝嶺ほうりゆう大権現(宝立山)の別当であったと伝える。寺伝によれば、瑠璃山薬師坊として開創され、栄範を中興として現在地に移り、一二世紀初めには郷内の薬師坊総坊の一面をもつ真言寺院となったとみられる。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]会津若松市蚕養町

持筒もちづつ町のほぼ中央北側にある。隆国山と号し、日蓮宗。本尊は久遠実成の釈迦如来。建武元年(一三三四)米代四之よねだいしの丁、のちの十八蔵じゆうはちくらの地に隆国山法華寺が建ったという(会津年表)。寛永四年(一六二七)伊予国松山まつやま(現愛媛県松山市)から加藤嘉明が会津入りしたとき、僧日栄も従い、現在地に移したと思われる。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]諏訪市中洲 神宮寺

諏訪大社上社本宮の南西に隣接してあり、上社の別院別当の寺であった。山号は鷲峰山。草創については明確ではない。初め天台宗であったが、寛元・宝治(一二四三―四九)の頃、諏訪盛重が蘭渓道隆を招き中興開山として、臨済宗に改めた。本尊は釈迦如来で、胎内に永仁二年(一二九四)の紀年銘がある。

天正一〇年(一五八二)織田信長・信忠が武田勝頼を追って諏訪に入り、上社周辺に放火した際にも焼け残った。「信長公記」の同年三月一九日条に、「上之諏訪法花寺に御居陣、諸手之御陣取段々に被仰付候也」とあり、信長は四月二日までこの寺に滞在、論功行賞などを行った。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]下関市大字豊浦町

忌宮いみのみや神社の北東にある。法華宗(本門流)で妙光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。

寺伝によれば、国分尼寺として現在地の北数百メートルの地安養寺あんようじ国分こくぶん寺と隣接してあり、法華寺と称していたという。元和年中(一六一五―二四)安成院日就が現在地に再建し、長府藩初代藩主毛利秀元の側室正福院の両親の帰依が厚く、死後その菩提寺となり毛利家から寺田を賜り、諦玄たいげん寺と改称した。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]余市郡余市町沢町

さわ町市街の南西にある。日蓮宗。妙円山と号する。本尊釈迦如来。一八五七年(安政四年)頃沢町に妙見堂を結び、明治八年(一八七五)函館実行じつぎよう寺より宮形威寛を招いて開山とし、同一三年八月妙円山法華寺を公称したという。同一七年本堂が完成。同二七年当時の檀家は一三二戸(「妙円寺縁起」当寺蔵)

法華寺
ほつけじ

[現在地名]釧路市米町二丁目

日蓮宗。布教山と号し、本尊釈迦如来。明治一二年(一八七九)日蓮宗身延派寺院として創立、令闡寺と号した。同一三年寺号公称(状況報文)。函館実行じつぎよう寺末で、当初は昆布森こんぶもり(現釧路町)の村民の信徒が多かったが(「建設願」寺蔵)、のち材木商などの商家の入信者が増えていったという。

法華寺
ほつけじ

[現在地名]曾爾村大字今井小字大門

かぶと岳・よろい岳を仰ぐ今井いまいの北部山上にある。唐招提寺の塔頭で霊鷲山と号し、律宗。本尊釈迦如来。唐招提寺旧蔵といわれる奈良時代の十一面観音像(国指定重要文化財)を安置していたが、現在は唐招提寺が保管。

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改訂新版 世界大百科事典 「法華寺」の意味・わかりやすい解説

法華寺 (ほっけじ)

奈良市にある真言律宗の門跡尼寺。正しくは法華滅罪之寺といい,氷室御所ともいう。藤原不比等の旧宅があった平城左京一条三坊の地に,光明皇后の皇后宮が設けられ,745年(天平17)宮寺(みやでら)に改められたのが法華寺の始めと考えられ,大和国国分尼寺(国分寺)として漸次整備された。天平19年(747)1月の《正倉院文書》に法華寺の寺名が初見する。758年(天平宝字2)6月ころから光明皇后は当寺の南西の地に一院の建立を計画したが,760年に死去したため,計画を変更して皇后の冥福を祈るための阿弥陀浄土院が建立された。782年(延暦1)造法華寺司が廃止されたが,このころ諸伽藍は整備したものと思われる。平安時代に至り漸次衰微したようで,鎌倉時代に俊乗房重源により堂塔,仏像などが修復され,西大寺叡尊は住寺の尼僧に戒律を授け,以後当寺は真言律宗の寺となった。1408年(応永15),1506年(永正3)の火災で諸伽藍や塔などが焼亡し,1601年(慶長6)豊臣秀頼と母淀君の発願で片桐且元が奉行となり再興されたのが,現在の本堂,南門,鐘楼(いずれも重要文化財)で,久しく天平の遺構を伝えていた東塔は1707年(宝永4)の地震で倒壊した。寺宝には国分尼寺の伝統を伝えるものが多く,なかでも本尊十一面観音像(国宝)は光明皇后の容姿をうつしたとの伝説があり,檀像彫刻の効果をねらった魅惑的な表情を現し,平安時代初期の木彫の傑作の一つである。その他,維摩(ゆいま)居士座像,木造仏頭(いずれも重要文化財)や,藤原文化を代表する仏画として有名な《阿弥陀三尊および童子像》3幅(国宝)などがある。また年中行事として〈雛会式〉が伝えられ,現在は4月1日から7日間営まれる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「法華寺」の意味・わかりやすい解説

法華寺
ほっけじ

奈良市法華寺町にある真言律宗の尼寺。古くは法華滅罪之寺(めつざいのてら)といい、また氷室(ひむろ)御所、比丘尼(びくに)御所などと称した。一説に、東大寺を総国分寺として女人の参拝を禁じたため、光明(こうみょう)皇后が父の藤原不比等(ふひと)の宅を移建して十一面観音(かんのん)を安置し、これを男子不入の国分尼寺としたという。のちに衰微したが、鎌倉時代に西大寺の叡尊(えいぞん)が再興、その影響により西大寺の末寺となった。その後、ふたたび衰微して阿閦(あしゅく)寺と称し、かつて光明皇后がこの寺に付属して設けた湯屋に至っては、まったく荒廃するに至った。1601年(慶長6)豊臣秀頼(とよとみひでより)母子により再建をみ、比丘尼御所として、近衛(このえ)家の息女が住持することとなり、現在の久我(こが)門跡に至っている。現在の本堂(国の重要文化財)は秀頼再建の建築。本尊の十一面観音木彫像(国宝)は平安初期の名作として名高く、光明皇后御影とされる。また維摩居士坐像(ゆいまこじざぞう)(国重文)、絹本着色阿弥陀(あみだ)三尊および童子画像(国宝)なども著名である。

石田瑞麿

『『古寺巡礼 奈良3 法華寺』(1979・淡交社)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「法華寺」の解説

法華寺
ほっけじ

奈良市法華寺町にある真言律宗の尼寺。正式には法華滅罪之寺と称し,門跡氷室(ひむろ)御所ともいう。聖武天皇の皇后光明子(こうみょうし)が父藤原不比等(ふひと)の邸宅を相続して皇后宮とし,さらに寺院に転じて宮寺と称した。これが大和の国分尼寺として法華寺とよばれ,総国分尼寺の立場におかれた。749年(天平勝宝元)墾田1000町などが施入され,堂宇が整備されたが,平安時代以降しだいに衰微。1245年(寛元3)西大寺の叡尊(えいぞん)が諸堂を復興してその末寺となり,室町時代には興福寺末となったが,1567年(永禄10)兵火にかかり,1601年(慶長6)に淀殿と豊臣秀頼が再建した。本尊木造十一面観音立像,および鎌倉時代の「阿弥陀三尊・童子像」は国宝。境内は国史跡。

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百科事典マイペディア 「法華寺」の意味・わかりやすい解説

法華寺【ほっけじ】

奈良市法華寺町にある真言律宗の寺。比丘尼(びくに)御所,氷室御所とも。国分尼寺の一つで,光明皇后の創立,法華滅罪寺と称した。本堂の本尊十一面観音立像(国宝)はヒノキの一木造で,平安初期の傑作。なお,各地の国分尼寺で法華寺を称する寺もある。
→関連項目国分寺(歴史)十一面観音南都七大寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「法華寺」の意味・わかりやすい解説

法華寺
ほっけじ

奈良市法華寺町にある真言律宗の寺。氷室御所ともいわれ,また法華滅罪之寺ともいう。光明皇后が父藤原不比等の旧宅を改めて総国分尼寺として,悲田院施薬院を建てたことに始る。本堂は桃山建築であるが,国宝『十一面観音立像』は藤原期の傑作で,問答師の作品。光明皇后をモデルとしたと伝えられる。

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デジタル大辞泉プラス 「法華寺」の解説

法華寺

奈良県奈良市にある尼寺。真言律宗に属したが1999年に独立、現在は光明宗。天平年間に光明皇后が父・藤原不比等の旧宅を寺に改め、総国分尼寺としたのが起源と伝わる。本尊の十一面観音像は国宝。豊臣秀頼と淀君が再建した本堂は国の重要文化財。庭園は国の名勝、旧境内は国の史跡に指定。

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旺文社日本史事典 三訂版 「法華寺」の解説

法華寺
ほっけじ

奈良市法華寺町にある真言律宗の尼寺
正しくは「法華滅罪之寺」という。奈良時代,藤原不比等邸跡に光明皇后が総国分尼寺として創建。貞観時代(859〜877)の木彫『十一面観音像』を本尊とする。

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事典・日本の観光資源 「法華寺」の解説

法華寺

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の法華寺の言及

【国分寺】より

…奈良・平安時代に諸国に置いた官寺。僧寺を金光明(こんこうみよう)四天王護国之寺(金光明寺),尼寺(国分尼寺)を法華滅罪之寺(法華寺)と呼び,合わせて国分二寺という。 国分寺制は,7世紀末より促進されてきた護国経典の読誦によって国家の安寧を祈る仏教政策の総仕上げであり,中央の大寺で展開した国家仏教の画一的な地方伸展の意義をもつが,直接的には律令体制の根幹をゆるがす疫病,飢饉,反乱などの災いを,《金光明最勝王経(最勝王経)》の鎮護国家の思想で消除しようと図ったものである。…

※「法華寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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