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道慈 ドウジ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

道慈 どうじ

?-744 奈良時代の僧。
三論宗。大宝(たいほう)2年唐(とう)(中国)にわたり,三論や密教をまなび,養老2年帰国。天平(てんぴょう)元年律師となる。大和(奈良県)大安寺平城京移転の際造営を担当し,また戒律をさずける僧を日本にまねく計画にもくわわる。当時の仏教界を批判した「愚志」をあらわしたが,現存しない。天平16年10月2日,七十余歳で死去。大和出身。俗姓は額田(ぬかた)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

道慈

没年:天平16.10.2(744.11.10)
生年:生年不詳
奈良時代の僧。俗姓は額田氏,大和国(奈良県)添上郡の人。大宝1(701)年に任命された遣唐使に従って,翌年入唐し,長安の西明寺に住す。唐では宮中で『仁王般若経』を講ずる高僧100人のひとりに選ばれたという。養老2(718)年に帰国。天平1(729)年には律師に任ぜられた。同9年には宮中での『最勝王経』講読の講師となるなど,鎮護国家の仏教を推進した。その一方,唐の西明寺を模して大安寺を造営し,『愚志』を著して日本仏教界を批判するなどの活動を行う。同16年に70歳余で没したが,それよりはやく律師を辞したとみる見方もある。<参考文献>井上薫『日本古代の政治と宗教』,佐久間竜『日本古代僧伝の研究』,中井真孝「道慈の律師辞任について」(『続日本紀研究』200号)

(若井敏明)

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世界大百科事典 第2版の解説

どうじ【道慈】

?‐744(天平16)
奈良時代の三論宗の僧。大和国添下郡の生れ,俗姓は額田(ぬかた)氏。701年(大宝1)遣唐使にしたがって入唐。留学中に,皇帝が学徳すぐれた高僧100人を選び,宮中で仁王般若経(にんのうはんにやきよう)を講義せしめたとき,道慈は学業優秀をもってその選に入り,とくに賞せられている。718年(養老2)帰朝,翌年優能をたたえられて食封(じきふ)50戸をたまわった。《懐風藻》に,竹渓(つげ)の山寺にいたころ,長屋王の招宴を辞退するという詩文などを載せる。

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大辞林 第三版の解説

どうじ【道慈】

?~744) 奈良時代の僧。大安寺流の祖。大和の人。701年入唐、元康から三論を、善無畏ぜんむいから密教を学ぶ。718年帰国、大安寺に住し、三論宗を宣揚した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

道慈
どうじ
(?―744)

奈良時代の三論(さんろん)宗の僧。俗姓は額田(ぬかた)氏。大和(やまと)国(奈良県)添下(そうのしも)郡の人。法隆寺の智蔵(ちぞう)に三論を学び、竜門(りゅうもん)寺の義淵(ぎえん)に法相(ほっそう)を習う。702年(大宝2)に遣唐使粟田真人(あわたのまひと)に従って入唐(にっとう)し、三論の奥旨を学び、善無畏(ぜんむい)より密教を伝授されたという。718年(養老2)に帰国して大和大安寺の平城移建に尽くし、のち住して盛んに三論を講説し広めた。三論宗の第三伝と称される。729年(天平1)10月に律師に任命され、平城京への大安寺の遷造の任にあたり、また『日本書紀』の編纂(へんさん)に参画したとされる。『大般若経(だいはんにゃきょう)』の転読会を創始し、宮中の最勝会(さいしょうえ)の講師(こうじ)を勤めるなど、聖武(しょうむ)帝の信任が厚かった。天平(てんぴょう)16年10月、七十余歳で入寂した。[伊藤隆寿]

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