1912~13年(大正1~2)と、24年(大正13)の二度にわたって展開された藩閥専制政府打倒を目ざす政党、民衆の運動。護憲運動と略称する。
[阿部恒久]
行財政整理により財源を確保し、日露戦後経営の完遂を期す第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣下の1912年11月、上原勇作陸相は海軍拡張に対抗して2個師団増設を要求したが、これがいれられないとなると、12月2日辞表を単独で天皇に提出した。そして陸軍から後任大臣を得られなかった西園寺内閣は5日総辞職し、21日内大臣兼侍従長の桂(かつら)太郎がとくに詔勅(しょうちょく)を得て第三次内閣を組織した。これら一連の事態は藩閥の横暴と広く受けとめられ、憲政擁護運動を興起させた。
運動は西園寺内閣倒壊直後に本格化した。まず立憲政友会各地支部が増師反対、閥族剿滅(そうめつ)の決議をあげ、東京では12月13日に新聞記者、弁護士らが憲政作振会を結成、14日慶応義塾出身者のクラブ交詢社(こうじゅんしゃ)の有志が、政友会の尾崎行雄(おざきゆきお)、立憲国民党の犬養毅(いぬかいつよし)を引っ張り出して時局懇親会を開き、憲政擁護会を発足させた。運動の兵站部(へいたんぶ)を自任する同会は、19日歌舞伎(かぶき)座で最初の憲政擁護大会を催し(約3000人参加)、「憲政擁護・閥族打破」を決議、運動を大きく盛り上げた。この前後から全国各地でも大小の演説会が行われ、年末年始の議会休会中には帰郷代議士が中心となって運動をいっそう発展させた。これに対し桂首相は1913年(大正2)1月21日以降15日間議会を停会し、一方で新党(立憲同志会)結成構想を発表、政党勢力の分断を図った(国民党の過半を占める改革派が新党に参加)。しかしこのため、政友会、国民党両党は態度をより硬化させ、世論も権力を利用した政党づくりの非を鳴らし、1月24日(東京)、2月1日(大阪)の憲政擁護大会は万余の参加者に満ち、運動は激化した。2月5日停会明けの議会に政友・国民両党は内閣不信任案を提出。桂首相は再度5日間の停会を命じ、9日詔勅を政友会の西園寺総裁に下させ、不信任案の撤回を強要した。政友会では動揺する原敬(たかし)ら幹部を一般代議士が突き上げ、不信任案をもって議会に臨むことを確認。これに対し桂首相は解散策をもって議会に臨もうとした。しかし2月10日激高した数万の群衆が議会を取り囲むなかで、桂は大岡育造(おおおかいくぞう)衆議院議長から、解散すれば内乱が起こると直諫(ちょっかん)され、ついに総辞職を決意するに至った。桂はそのためにさらに3日間の停会を命じた。しかしこの事情を知らぬ群衆は停会に怒り暴動化し、御用新聞社、交番などを襲撃した。また11~17日には大阪、神戸などでも同様の事態が発生した。後継内閣は海軍大将の山本権兵衛(ごんべえ)が政友会を与党として組織した。民衆の多くは政友・国民両党提携による政党内閣を期待していたから、政友会の妥協は民衆を失望させた。このため尾崎ら交詢社系の議員は政友会を脱党し政友倶楽部(くらぶ)を結成。国民党も新内閣と一線を画した。これに対し山本内閣・政友会は文官任用令改正、軍部大臣現役武官制改正(現役規定をなくす)、行財政整理断行などによって批判をかわし、運動はいちおう収束した。
この運動では政党、新聞記者らが表面にたったが、日露戦争後頻発した都市民衆騒擾(そうじょう)のなかで巨大なエネルギーを蓄え、政治的成長を遂げた民衆の運動が絶えず政党を突き上げており、客観的主導力は民衆の側にあった。また青年層や実業家も活発な動きを示し、総じて大正デモクラシー状況を大きく切り開いたものといえる。
[阿部恒久]
1924年(大正13)1月1日、貴族院を基礎とする清浦奎吾(きようらけいご)内閣が成立した。22年6月政友会の高橋是清(これきよ)内閣倒壊以後、加藤友三郎、山本権兵衛に続いて三度官僚内閣が出現したことは、政党の結束を促し護憲運動を興起させた。しかし政友会の反総裁派は運動に反対して脱党、政友本党を結成し政府与党となった。これがいっそう政友会、憲政会、革新倶楽部の提携を強め、1月18日三浦梧楼(ごろう)の斡旋(あっせん)で高橋是清、加藤高明(たかあき)、犬養毅の三党首会談が実現、「憲政の本義に則(のっと)り政党内閣制の確立を期すること」を申し合わせ、運動を本格的に出発させた。これに対し清浦内閣は1月31日議会を解散したが、護憲三派は全国各地で護憲大会などを開き、普通選挙制実行や貴族院改革などを唱えて運動を展開、5月10日の総選挙には合計286名の絶対多数を得て圧勝した(憲政会151、政友会105、革新倶楽部30)。この結果清浦内閣は総辞職し、元老西園寺公望の推薦により、憲政会総裁の加藤を首班とし、他2党と連立の護憲三派内閣が6月11日成立、以後1932年(昭和7)までの、衆議院第一党の党首が内閣を組織する「政党内閣制」の慣行を樹立した。しかしこの運動には、激化しつつあった階級闘争をいかに封じ込めるかという観点が内在し、運動を主導した政党と民衆の結合関係は第一次のそれより弱く、したがっていまひとつ盛り上がりを欠いた。このことが25年、護憲三派内閣下で普通選挙法とともに治安維持法が制定される背景をなしたのである。
[阿部恒久]
『信夫清三郎著『大正政治史』全4冊(1951~52・河出書房/合本・1968・勁草書房)』▽『山本四郎著『大正政変の基礎的研究』(1970・御茶の水書房)』▽『今井清一著『日本近代史Ⅱ』(1977・岩波書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1第1次。1912年(大正元)12月,2個師団増設問題で第2次西園寺内閣が総辞職し,桂太郎が第3次内閣を組織すると,旧来の政治体制の変革を期待する言論界や民衆運動の批判が集中。「閥族打破,憲政擁護」のスローガンのもとで憲政擁護会を中心とする諸団体の大会が各地で開催され,政友会・国民党も参加。13年2月停会後の議会は数万の群衆に包囲され,桂内閣は11日に総辞職した(大正政変)。
2第2次。1924年(大正13)1月,清浦奎吾(けいご)が貴族院を基礎に組閣すると,憲政会・政友会・革新倶楽部の3党が内閣打倒の運動を全国的に展開。5月の総選挙で護憲三派が勝利し,清浦内閣は総辞職。既成政党への不信感もあり,民衆運動は盛り上がりに欠けた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…大正時代,民衆運動を背景とした政党の藩閥官僚政治打破,立憲政治確立の運動。憲政擁護運動ともいわれる。第2次大戦後にも新憲法改正に反対する運動をこの名をもって呼ぶこともあるが,これについては〈日本国憲法〉の項を参照されたい。…
※「憲政擁護運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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