日本大百科全書(ニッポニカ) 「清浦奎吾内閣」の意味・わかりやすい解説
清浦奎吾内閣
きようらけいごないかく
(1924.1.7~6.11 大正13)
清浦奎吾を首相に貴族院勢力を基礎とする大正後期の内閣。1923年(大正12)12月27日第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣が虎の門事件(とらのもんじけん)で総辞職すると、元老西園寺公望(さいおんじきんもち)は、近く予定されている衆議院議員総選挙を党派に関係なく公平に行うこと、皇太子御成婚式を政争の具に供しないことの2点を考慮し、政党政治家を避けて、枢密院議長清浦を後継首相に推薦した。1924年1月1日組閣の大命を受けた清浦は、初め衆議院の第一党の立憲政友会と貴族院の最大会派の研究会の協力を得て組閣を進めようとしたが成功せず、結局、同年1月7日研究会を中心に内閣が成立した。閣僚は総理、外務、陸軍、海軍の4人を除けば、すべて貴族院議員であった。清浦内閣は言論界での人気に乏しく、憲政会と革新倶楽部(くらぶ)はいち早く「時代錯誤の特権階級内閣」として清浦内閣打倒を唱え、立憲政友会は内閣支持の是非をめぐって党内が紛糾したが、高橋是清(たかはしこれきよ)総裁の断により内閣反対の方針を明らかにした。ここにいわゆる護憲三派が形成され、清浦内閣打倒と政党内閣の樹立を目ざす第二次憲政擁護運動が高まった。衆議院における内閣支持勢力は立憲政友会脱党派により結成された政友本党など少数であり、第48議会で野党攻勢により苦境にたたされた清浦内閣は、1924年1月31日衆議院を解散した。しかし、同年5月10日の総選挙では、政友本党が大幅に議席を失い、憲政会が第一党になり護憲三派が過半数を制した。研究会、政友本党にはなお政権維持を図る動きもあったが、6月7日清浦内閣は総辞職し、6月11日護憲三派の加藤高明(かとうたかあき)内閣が成立した。
[鳥海 靖]
『林茂・辻清明編『日本内閣史録3』(1981・第一法規出版)』