戸町浦(読み)とまちうら

日本歴史地名大系 「戸町浦」の解説

戸町浦
とまちうら

中世、彼杵そのき庄のうちにあった浦。史料上は戸町村ともみえ、「とまちのうら」とよみ、また戸八とはち浦とも記されるほか、深堀氏が知行したことから南北朝期には深堀ふかほり浦とも称したらしい。その範囲は広域で、現在の香焼こうやぎ町・三和さんわ町・野母崎のもざき町およびこれらに隣接する長崎市域にわたる。建長七年(一二五五)三月二八日の将軍宗尊親王家政所下文(深堀文書、以下断りのない限り同文書)に「戸八浦」とみえ、深堀能仲は当浦の地頭職に任じられ、五月二日に六波羅施行状、同月二三日に大宰府守護所下文が出されている。同氏は上総国を本拠とする御家人で、この地頭職補任は承久の乱の勲功地の替として行われたものであるが、これに伴い彼杵庄惣地頭代である在地の戸町氏と相論が起き、長期にわたる訴訟が続いた。

〔深堀氏と戸町氏の相論〕

地名を称する戸町氏は、古代より長崎半島西岸などに勢力を広げていた丹治姓一族であったとする説がある。正嘉元年(一二五七)深堀行光が「戸町内杉浦」での戸町氏の狼藉を訴えたが(同年閏三月三〇日関東御教書案など)、戸町氏側は翌二年に深堀氏こそ惣地頭得分を押領していると主張(同年一二月二六日彼杵庄惣地頭代後家尼某請文)、幕府は六波羅探題に命じて裁決をはかろうとしたが、戸町氏は数次にわたる催促に応じていない(正嘉元年一二月二四日および文永四年九月一九日六波羅御教書案など)。なお惣地頭代の後家尼某は、論所の一つ杉浦すぎうらは戸町浦と永埼ながさき浦の境で戸町浦に属しておらず、かつて戸町本主の丹藤次俊長と永埼本主四郎俊信の相論で決着がつかなかったため、両者から惣地頭へ譲渡されてから四〇余年が過ぎていると主張している(前掲後家尼某請文)。文応元年(一二六〇)「戸町浦地頭」に土居二町(堂免一町・用作一町を除く)が宛行われている(同年八月日某下文案)。文永六年(一二六九)戸町俊基は深堀行光が「戸八郷」内の四ヵ所の浦々を押領したと訴えている(同年八月一二日関東御教書)

弘安五年(一二八二)峯致道が本所一円地と称して宛行われた「戸八浦」内の高浜たかはま切杭きりくい(現野母崎町)の知行が彼杵庄の本家である京都仁和寺性助より深堀時仲に安堵されている(同年九月日入道二品親王庁下文)。しかし両所以外についてはなお決着がついておらず、同六年時仲は浦内の香焼・杉浦へ戸町俊基による押領があると訴えている(同年一一月一七日六波羅御教書)。深堀時仲と戸町俊基との相論はその死後、かれらの子・孫に継承され、一応の和与が成立したのは文保二年(一三一八)のことであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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