日本歴史地名大系 「手賀村」の解説
手賀村
てがむら
〔中世〕
嘉禄三年(一二二七)一二月、相馬能胤(義胤)は相馬御厨内「てか」を
建武四年四月以前と推定される相馬胤家代妙蓮申状案(相馬岡田文書)によれば、胤家は新田源三郎(岩松直国)跡である「手賀・藤心両村」の給付を奥州総大将斯波家長を通じて足利尊氏の執事高師直に要請したが、その際、胤家はこの両村を先祖の本領と主張している。
手賀村
てがむら
霞ヶ浦沿岸にあり、北は玉造村。「常陸国風土記」に「郡より西北のかたに
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報