手賀村(読み)てがむら

日本歴史地名大系 「手賀村」の解説

手賀村
てがむら

[現在地名]沼南町手賀

片山かたやま村の東にあり、村域は手賀沼南岸の台地と谷津からなる。東は布瀬ふぜ村。中世には相馬そうま御厨のうち。

〔中世〕

嘉禄三年(一二二七)一二月、相馬能胤(義胤)は相馬御厨内「てか」を布施ふぜ(布瀬)藤心ふじごころ(現柏市)野木崎のぎさき(現茨城県守谷町)の三ヵ村および陸奥国千倉ちくら(現福島県鹿島町)とともに女子とよ(土用)御前に譲与し(「相馬能胤譲状案」正木文書、以下断りのない限り同文書)、この相続は、貞永元年(一二三二)一一月一三日、幕府より安堵された(将軍家政所下文案)。宝治二年(一二四八)以前、新田氏の一族岩松時兼に嫁したらしいとよ御前は、弘長三年(一二六三)以前に没し、手賀は藤心・布瀬とともに女子とち御前に譲与された。藤原某に嫁したとち御前(真如)は、弘安五年(一二八二)一一月一二日、「てかかうハんふん東方」を藤心郷・柳戸やなど村半分とともに女子藤原土用王御前に譲与している(尼真如譲状写)。ところが土用王御前(尼妙蓮)には子がなかったため、建武元年(一三三四)一二月二一日、母方の実家岩松氏から直国を養子に迎えて手賀(郷)半分東方などを譲与した(尼妙蓮譲状案)。なお手賀郷西方の伝領経過は不明である。

建武四年四月以前と推定される相馬胤家代妙蓮申状案(相馬岡田文書)によれば、胤家は新田源三郎(岩松直国)跡である「手賀・藤心両村」の給付を奥州総大将斯波家長を通じて足利尊氏の執事高師直に要請したが、その際、胤家はこの両村を先祖の本領と主張している。


手賀村
てがむら

[現在地名]玉造町手賀

霞ヶ浦沿岸にあり、北は玉造村。「常陸国風土記」に「郡より西北のかたに提賀てがの里あり。古、佐伯ありき。手鹿てがと名づく。其の人の居たれば、追ひて里に着く」と記される。「和名抄」にいう提賀郷本郷の地といわれ(新編常陸国誌)、嘉元大田文には「手賀八丁」とある。中世は常陸大掾氏一族玉造幹政の二子正家が当地に居住し、手賀氏を名乗って根拠地としたが、永仁年間(一二九三―九九)に手賀助八郎が郷内鳥名木となぎに館を築き、鳥名木氏と称した。天正一九年(一五九一)の手賀氏滅亡後、佐竹氏領となり、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高百十二石弐斗七升七合 此内三十三石七斗二合 荒 定納十四貫百四十三文 皆納 川井大膳手賀」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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