日本歴史地名大系 「打田村」の解説 打田村うちたむら 和歌山県:那賀郡打田町打田村[現在地名]打田町打田上野(うえの)村の東に位置し、南は窪(くぼ)・竹房(たけふさ)の両村、東は黒土(くろつち)村。村の南寄りを東西に大和街道が通り、集落はその付近に集まる。中世は田中(たなか)庄に含まれた。慶長検地高目録では村高一千七四六石余、小物成一石一斗六升六合。田中組に属し、元禄二年(一六八九)の田中組指出帳(田中家文書)によると田方が一一三七・九六三石(六七町七反余)、畠方が六三・八五八石(四町四反余)、家数一一八、人数六八三、馬七、牛六二。延享元年(一七四四)の田中組大指出帳写(桂原家文書)では家数一六五で内訳は本役九九・半役五三・無役九・庄屋一・肝煎二・あるき一、岩出(いわで)(現岩出町)・麻生津(おうづ)(現那賀町)・竹房(たけふさ)の渡船代として合せて米六斗七升、麦一石八斗を出すとある。 打田村うちだむら 熊本県:天草郡栖本町打田村[現在地名]栖本町打田河内(かわち)村の西に接する。室町初期、栖本氏は当地の山城に拠ったといわれ、その遺構が残る。その後栖本氏は湯船原(ゆふねはら)城に本拠を移し、当地には一族の部将を配した。近世初期と推定される栖本氏系譜(栖本松尾氏蔵)に内田通村・通高の名がみえる。天草・島原の乱のときは、郡代所在地の湯船原村に近かったためか、一揆荷担者が少なかった。正保郷帳に村名がみえ、高一九八石二斗余とある。栖本組に属し、庄屋は河内村庄屋吉田家の兼帯。万治二年(一六五九)石高半減により一四〇石四斗余となった。 打田村うつたむら 京都府:綴喜郡田辺町打田村[現在地名]田辺町大字打田西を大和国(現奈良県)、東南を相楽郡東畑(ひがしばた)村(現精華町)と接する綴喜郡最西南端の村。中世、内田外記なる者が当地に住したので、内田村と称したという伝えがあるが定かでない。元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳では高三〇二・一八二石、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳では二八六石余すべてが淀藩領。明治一〇年代の「京都府地誌」によれば総戸数一二八、人数五四六、牛六〇頭。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by