払田村(読み)ほつたむら

日本歴史地名大系 「払田村」の解説

払田村
ほつたむら

[現在地名]仙北町払田

丸子まるこ川下流右岸に位置し、北にしん山・長森ながもりの二つの小丘陵があり、その北を矢島やしま川(からす川)が流れる。東は本堂城廻ほんどうしろまわり村・土崎つちざき村(現千畑せんはた村)と接する。

戦国期に堀田氏が真山に城を築いたと思われる。「奥羽永慶軍記」に天文二一年(一五五二)小野寺氏を攻めた軍勢の中に「堀田」の名がある。「柞山峯之嵐」に慶長七年(一六〇二)佐竹氏入部の際「仙北小野寺氏拘城は庄内領主清水大蔵大輔義之受取て御当家へ渡さると云。仙北にて山田・西馬内・松岡・深堀・今泉・西野・鍋倉・川連・稲庭・三梨・黒沢・楢岡・本堂・堀田・梅沢」とあり、藩政初期には城郭として存在していたと思われる。所伝によれば堀田氏は本堂氏に攻め滅ぼされたという(高梨村郷土沿革紀)


払田村
はらいだむら

[現在地名]豊後高田市払田

都甲とごう川を挟んで鴨尾かもお村の北に位置し、同川下流域の美和みわ台地上に立地する。正治元年(一一九九)一二月六日の大神家実譲状案(都甲文書)によると、家実は実子がなかったため他腹・他姓の壬生王を嫡子に立て、先祖相伝の都甲庄地頭職を同人に譲り渡しているが、同譲状案に「にしハかきる、はらみたのにしのたに」とみえ、当地は同庄の西境であった。弘長二年(一二六二)四月一九日の大神惟家所職譲状や翌三年一一月二一日の大神惟家所職譲状(ともに同文書)にも同庄の西限として「原田下三塚」「はらへたのにしのみつゝか」とみえる。


払田村
はらいだむら

[現在地名]余目町払田・幸町さいわいちよう

北流する北楯大きただておお堰西岸、島田しまだ村の北にある。地名の由来は洪水山崩れで田畑を払捨て移転したこととされる。「西小野方村史」によると近世初期には堀場ほりば村の北にあったとされ、正保庄内絵図(本間美術館蔵)では同村南に描かれる。正保三年(一六四六)もしくは慶安四年(一六五一)に西方の現在地に移転したといわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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