今日、「技術革新」ということばは、技術の発展における画期的な新局面をさす意味の日本語として常識的に使われている。しかし語源的には、アメリカの経済学者シュンペーターのいうイノベーションの新しい訳語として登場し、使われ始めたことばである。したがって学問的には、発明(インベンション)や技術進歩と区別して、それらが工業化される社会的過程をさす用語として使われている。
[大谷良一]
シュンペーターは、経済発展の過程や、景気循環の過程を説明するために、インベンションと区別して、イノベーションの概念を導入した。彼は、経済活動の高揚は、発明の結果のみと直結しているのではなく、発明を軸に企業家が新しい商品の生産、企業経営の新しい発展方向を打ち出すことによって社会的に展開されると説いた。シュンペーターは、商品供給方法の変化は、一般に考えられているよりも広い範囲に及ぶとして、新製品や新しい性質を備えた商品の導入、新しい生産方法の採用、新市場の開拓、原料または半製品の新しい供給源の征服、および産業の新しい組織の実現――つまり経済活動の全領域において従来とは異なった新しいやり方をすることを、イノベーションとよんだ。
シュンペーターは、このイノベーションという概念によって、コンドラチェフのいわゆる長期波動説を説明しようと試みた。
コンドラチェフの長期波動説の第一波は1780年代末から1850年代初めまで、第二波は1850年代初めから1890年代まで、第三波は1890年代から1920年代ごろまで、とされているが、シュンペーターによれば、こうした現象は、第一波においては産業革命およびその浸透の過程、第二波においては蒸気機関を軸とした鉄道の建設と鋼鉄の時代、第三波においては、当時第二次産業革命ともてはやされた電気・化学・自動車の時代としてとらえることによって説明される。
つまり、重要な発明が、旧来の技術を圧倒して企業のなかに取り入れられて、次から次へと関連部門に波及して新投資をよび、新しい企業経営や新しい産業が群生的におこることによって、景気の長期的上昇がもたらされると考えたのである。
[大谷良一]
1956年(昭和31)に刊行された日本の『経済白書』は、イノベーションに「技術革新」という訳語を与え、高度経済成長は、イノベーションの第四波の開始と密接にかかわっていると述べた。その第四波とは、技術についていえば、原子力、ミサイル、ジェット機、テレビジョン、半導体、コンピュータ、マイクロ波通信、合成繊維、プラスチック、合成ゴム、有機農薬、合成洗剤、品質管理、オートメーションなどであった。
[大谷良一]
シュンペーターは、新しい発明なしにもイノベーションが生じることをしばしば強調したが、画期的な技術進歩に基礎づけられたイノベーションが、もっとも重要な経済活動の変化・発展を生み出すことはいうまでもないことであった。そして先に例挙した新技術の多くは、技術史のうえで新紀元を画する重要なものであった。
したがって欧米においても、第二次世界大戦後は、イノベーションという経済学上の用語とともに、テクノロジカル・イノベーション(技術革新)という用語が広く使われるようになった。
そして技術革新とよばれるようになった社会的過程について、経済学、経営学、社会学、歴史学など人文・社会科学の諸分野において、技術進歩と社会との相互作用が広く、かつ深く研究され始めた。科学史や技術史の研究もまた、発見史、学説史、発明史のレベルを越えて、社会的過程として分析され、再構成されるようになった。
画期的な新技術の登場を契機に、技術の諸分野において連鎖的な変化が生じ、社会的生産過程における主要な労働手段の交替が行われる過程――新しい技術体系の成立過程――は、これまで技術革命という概念でよばれてきた。また技術革命が新しい社会的生産様式を生み出す過程は、産業革命とよばれてきた。産業革命は、これまで人類が経験してきた最大の技術革新過程ということができる。技術革新をめぐる議論が、技術革命論や新産業革命論と重なり合って展開されるのは、学問上意義のあることといえよう。旧ソ連・東ヨーロッパの研究者は、第二次世界大戦後の技術革新過程を「現代科学技術革命」と規定して、理論的・実証的研究を行っているが、このことに留意する必要があると考えられる。
[大谷良一]
技術革新についての研究は、シュンペーターの理論を乗り越えて急速に発展しつつある。技術進歩と技術革新過程をめぐる社会的現実の展開が、シュンペーターが考察した時代とは大きく変わってきたからである。
シュンペーターは、企業家の役割を重視し、発明(インベンション)とイノベーションを峻別(しゅんべつ)した。しかし、現代の企業は、基礎研究から開発研究、商品化、そしてそれらを売るための市場開拓まで一貫して行う組織として活動している。また、政府・行政機関とも深く結び付いて活動している。技術革新の速度や方向についての考察は、以上の点を抜きにして行うことはできないのである。
技術革新の定義を、技術学の新しい達成の工業化、それらに基づく設備更新ないし新規拡張の意味に狭く限定するにしても、技術学の新しい質がどのような水準のものであるかが問われなければならないし、それがどのような社会的諸関係・社会的制度のもとで生み出されたものかを見落としてはならないであろう。
[大谷良一]
18世紀後半から19世紀初期にかけてイギリスにおいて進行した産業革命は、近代におけるもっとも重要な技術革新であったということができる。よく知られているように、1764年ごろ(1767年説もある)に発明されたハーグリーブスの「ジェニー」紡績機を起点に、紡績業・織物業で始まった一連の発明の結果、綿製品の生産が一変し、工場制度という新しい生産方式が生み出された。
この変革は、蒸気機関、工作機械、鉄工業、鉄道、電信というように、技術の諸分野に波及し、小経営やマニュファクチュア(工場制手工業)にかわって、機械制大工業を主要な生産方式として登場させた。その歴史的意義は、資本主義的生産様式を社会のすみずみにまで押し広げた点にある。1851年ロンドンにおいて開催された世界最初の万国博覧会は、世界の工場としてのイギリスの栄光を全世界に誇示するものであった。
しかし、ここで注意しておきたいことは、産業革命として規定されるこの技術革新過程において、富を集中し集積したのは、一握りの産業資本家であって、圧倒的多数の労働者・農民は、ごくわずかの分け前を得たにすぎなかったことである。労働者たちは劣悪な労働条件のもとで、長時間労働を強いられ、水汚染、大気汚染、有害食品の氾濫(はんらん)に苦しめられた。
イギリスの労働者が、産業革命期の技術進歩の恩恵に浴するためには、賃金引上げや労働時間の短縮をかちとらねばならなかった。
産業革命期の、近代市民社会の原理は、私的営業の自由であり、自由放任が経済原則であり、自助の精神が個人活動の原則とされた。したがって学校教育もまた、労働者自らが努力し、自分たちの手でつくりださなければならなかった。イギリスにおける公教育制度がようやく確立するのは、1870年のことである。
[大谷良一]
技術革新の第二波が始まるのは、19世紀末期である。電気(電灯・電動機・電気化学など)、有機化学と合成物質、内燃機関と自動車、蒸気タービンと精密機械や流れ作業方式などに象徴される新技術が、工業発展の新しい画期を示すようになるのは、1890年代のことであった。
この時期において、科学や工学理論に基礎づけられた産業活動において先頭をきったのはドイツとアメリカであった。
イギリスは電気・化学などの分野において、これらの国々の後塵(こうじん)を拝することになる。その理由は単純ではないが、イギリスの科学技術教育の立ち後れ、ならびに新しい社会的生産諸力の性格に、イギリスの社会関係が容易に対応しえなかったことが大きな原因として指摘しうるであろう。
技術革新のこの第二波において、とりわけ注目に値するのは電気である。エネルギー変換がきわめて容易であるという特質をもつ電気は、電灯、電動機、電熱など多様な商品形態をとって、あらゆる産業分野に入り込み、事務所、家庭にも電化・機械化の突破口を切り開き、遠距離送電網、すなわち一大電力体系の成立は、産業の発展を局地的制限から解放する可能性をもたらすものであった。
社会化されたネットワークとして自己を形成する電気技術は、電気単位をはじめ、電圧、周波数など技術的統一を不可避とする。電気、化学の産業分野において独占形成が早かったのはこのためである。
しかし独占形成がもっとも早かったアメリカにおいては、電力独占体は、利潤率が高い工業・都市地域に主力を注いだため、農村の電化はニューディール以後、農務省の援助によって進展したのであって、アメリカの農村の電化率は、1935年に全農場の10.9%、1945年に45%、1950年に77%、1955年に92%、1960年にようやく97%に達したのであった。アメリカの農村電化は、政府による技術援助と財政援助(資金融資など)によって、第二次世界大戦後にようやく実現されたのであった。
技術革新の第二波は、ビッグ・ビジネス、すなわち独占企業を生み、同時にアジア、アフリカ、中南米の植民地争奪となり、軍事力による結着、第一次世界大戦という帝国主義戦争に至ったのであった。
以上、きわめて簡単に二つの技術革新を振り返ってみたが、技術革新過程をみる場合に、新しい技術の特質を押さえること、そして技術革新過程はまさに社会的過程として分析しなければならないことが重要であることを指摘しておきたかったからである。
[大谷良一]
第二次世界大戦後の日本の技術革新過程は、日本における戦前と戦後の比較という点においても、また国際的な比較という点においても、いくつかの際だった特徴をもって進行した。日本の経済成長の驚異的なスピードと、技術水準の急速な回復ぶりは、日本的経営への関心と相まって、国際的な注視の的となっている。
[大谷良一]
技術革新が、一定の社会的・歴史的条件のもとでの、技術、産業、経済、社会のダイナミックな関係を通してつくりだされる過程であるという視点にたって、戦後日本の技術革新を振り返ってみるとき、戦前の半封建的・軍国主義的社会関係から、近代的・民主的な社会関係への移行が意識的に追求されたこと、端的にいえば、新しい憲法が制定され、第9条において「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」が確認されたことを重視せざるをえないであろう。
1950年(昭和25)の朝鮮戦争後、また1960年の日米安全保障条約以降、自衛隊が復活し、軍事力の強化が進行し始めたとはいえ、憲法第9条の規定が技術革新を民需中心にしたこと、国民的な諸運動によって軍事的投資が抑制されてきたことが、日本の経済諸活動の方向性を大きく規定したことを見逃してはならないであろう。
基本的人権が保障され、労働運動をはじめとして国民的諸運動が活発に展開されたことも、これに加えておかなければならない。
[大谷良一]
戦後の日本の技術革新は、全面的な外国技術の導入によって開始されたことも重要な特徴の一つである。外国技術への安易な依存は、低賃金・長時間労働と、大企業優遇の金融政策とに支えられた設備投資によって、高度経済成長の基盤となるとともに、生産設備の巨大化が、労働災害・公害の激化を伴って進行した。
技術導入は、その後のきめの細かい部分改良の積み上げによって、見かけ上は技術水準の急速な回復と上昇をもたらしたが、日本の自然的・社会的諸条件に適合した自主的な技術の創造という点において、今日なお少なからぬ弱点をもっていることは否定できないのである。スケール・メリットと、きめ細かい部分改良の積み上げによって国際競争力をつけるというやり方はしだいに限界に近づきつつあるといえるのではないだろうか。
[大谷良一]
1970年代の後半以降、超LSIの開発を中心に、マイクロエレクトロニクス技術は急速な展開を示し、コンピュータ・ネットワーク、高度情報処理システム、ニューメディア、ロボット化、さらにはバイオテクノロジーなどに、多くの人々の関心が集まっている。
情報処理技術の発展は、その技術的機能からいって、人間生活のさまざまな領域に進出していくであろう。その本格的な展開はようやく始まったばかりである。しかし、多くの人々が期待とともに少なからぬ不安を抱きながら、その情況を見守っているといってよいであろう。その不安は雇用問題や再教育問題だけにあるのではない。個人のプライバシー問題や、情報公開のあり方などに深くかかわって不安は存在しているのである。
技術の社会的影響は、人間の物質的生活のみならず、精神的・文化的側面にまで深く及びつつあり、技術体系はますます社会的性格を強めている。企業の目先の利益にとらわれない深い考察が必要であることを、多くの人々が感じ始めているのである。
技術革新の今後の方向とあり方を模索するにあたってもっとも重要なことは、意志決定過程の民主化であり、テクノロジー・アセスメント(技術の事前評価制度)の民主的確立であろう。そして、技術革新は、社会的過程であり、社会のあり方と深くかかわっているという点については、いかに強調しても、強調されすぎるということはない。
[大谷良一]
『星野芳郎著『技術革新の根本問題』(1969・勁草書房)』▽『中村静治著『戦後日本の技術革新』(1979・大月書店)』▽『シュハルディン編、山崎俊雄・金光不二夫訳『現代科学技術革命論』(1974・大月書店)』▽『ジュークス・サワーズ・スティラーマン著、星野芳郎・大谷良一・神戸鉄夫訳『発明の源泉』(1975・岩波書店)』▽『ランデス著、石坂昭雄・富岡庄一訳『西ヨーロッパ工業史――産業革命とその後 1750―1968』全2巻(1980~1982・みすず書房)』
もともとは,J.A.シュンペーターが景気循環の長期波動を説明するために提出した概念〈technical innovation〉の訳語として日本語となったことばである。しかしその後このことばは本来の経済学用語としての意味をはなれ,技術の発展における画期的な新局面をさす意味の日本語として常識的に使われるようになった。ここではその両義について説明する。
シュンペーターは経済において企業者が果たす役割を重視したが,なかでも彼らがリスクをおかして,それまでにはなかった新しい組織,技術,活動方法等を,経済のなかにもちこんでくる革新的行動=イノベーションの役割を重視した。こうしたさまざまなイノベーションと,成功したイノベーションが模倣をとおして経済活動全体の中に急速に普及していく過程が,景気の上昇局面をつくりだすと彼は考えたが,それらのなかでも最も重要なものは技術的なイノベーション=技術革新であるとしたのである。たとえば産業革命期のイギリスをみても,石炭業の発展のなかで炭鉱の揚水問題にそって発展してきた蒸気機関が,綿業へもちこまれて大工場システムを生み,鉄鋼業へもちこまれて高炉の革新を生み,交通へもちこまれて鉄道と汽船の発展を生み,そこからの需要が製鋼技術の革新を誘発するというふうに,一つの分野でなしとげられた技術的革新が,急速に他の分野にひろがりながら,次々と新しい革新を誘発していく。こうした爆発的な新技術の誘発過程がこの時期のイギリス経済の活力にみちた発展を支えたのであるが,その過程をリードしたのは,個々の発明家たちよりもむしろ,危険をおかしてもそれらの発明を生産と結びつけ,新しい活動領域を開拓していった企業家の行動であると彼は考えた。したがって,彼のいう技術革新(イノベーション)とは,革新的な発明とか技術開発とかからは厳密に区別された,企業者が最初にそれを生産の領域にもちこむことによってひきおこされる革新のことであった。
第2次大戦後,経済成長の問題と結びつけて,経済理論の中に技術をとりこもうとする試みがふえ,シュンペーターのイノベーション概念はほぼ経済用語として定着したが,その場合も,発明,イノベーション,普及という区別を厳密にまもり,新発明を最初に経済領域にもちこんで成功させることにイノベーションを対応させるのが通例である。だから技術革新を,技術の発展の画期的な局面をさすことばとして使う常識的用法は,誤用であるとする人もいるが,一概にそうはいいきれない。現代では,シュンペーターの考察した時代とは異なって,もはや発明は個人の事業ではないし,新技術をもちこむことは企業者の行動ではなくなっている。現代の企業は,それ自体,基礎研究から応用開発,さらにその商品化,それを売るための市場の開拓まで一貫して行う組織として活動している。つまり,企業自体がシュンペーター的なイノベーションを次々と生みだし,相互に普及しあう活動を一貫して行っているので,そこでは彼の考えた発明,イノベーション,普及という区別はほとんど意味がなくなっている。画期的新技術の出現すなわちイノベーションと考えても不都合ではない状況があるのである。むしろ,彼のイノベーション=技術革新の考え方は,ひとつのイノベーションが普及していくなかで,次々と新しいイノベーションを生み,経済全体の活況と社会的変化を生みだしていくという考え方と結びついていたことに注目する必要がある。日本語として定着した技術革新は,そうした社会的過程の全体をさすことばになっている。
たとえば20世紀前半のアメリカをみてみると,広大な国土という条件にあわせて,乗用車の普及と自動車産業の興隆があり,そのなかから安価な車を大量生産する生産技術の革新として,流れ作業を軸とするフォード・システムが成立した。同様な大量生産方式の進展は平行して電機産業でもおこり,機械が大衆消費財となるという状況が経済のなかにはじめてつくりだされた。これは企業活動にも大きな変化をもたらし,販売,市場開拓,宣伝などの面で次々と革新を生みだし,企業内部ではマネジメントの問題を生みだした。生産技術のこの革新は,工作機械工業における研削盤,多軸ボール盤,その他の新機種,とくに専用工作機の急進展,鋳造,型鍛造など加工方法の革新に支えられていた。素材面では,特殊鋼,薄板製造,板ガラス,ゴムなどの面での革新を強く牽引するものであった。影響は国内にとどまらず,大量のタイヤのためのゴム需要にひきずられて,東南アジアで植民地的ゴム・プランテーションが進展したのも,この連関のうちである。こうした展開とほぼ平行して,電力産業,無線通信,石油精製,合成化学等々の分野でも新技術が続々と生まれた。これらはそれぞれ,どれが原因でどれが結果かということができないほど相互に連関しあった現象であり,全体として20世紀前半のアメリカ経済のかつてない活況をつくりだすとともに,人々の日常生活,とりわけ都市の社会生活に大きな影響を与え,アメリカ文明の名で,第2次大戦前の世界の注目を集めた社会生活の型を生みだした。
こうした変化は,もはや企業家の革新的行動などだけでは説明のつかない,もっと大きな,一定の社会的・歴史的条件の下での,技術,産業,経済,社会のダイナミックな連関をとおしてつくりだされる過程である。そしてその変化の過程を主導するものは技術か経済か,それとも社会的条件かと問うことも無意味で,変化はそれらの相互の連関をとおして生みだされるという以外ない。ただ,この変化の過程をとおし,最初に一群の画期的な新技術が登場し,それが社会的・経済的活動に急速に普及していく過程で,次々と新しい技術的革新を誘発し,全体として経済のかつてない活況と,社会の急激な変化がひきおこされる,という特徴が貫いていることはまちがいない。技術革新とはこのような状況をさすことばであり,変化をつくりだす個別の技術変革をさす意味にも,過程の総体をさす意味にも両用に使われている。
第2次大戦後の日本の高度成長も,このような型の技術革新に支えられていた。ただ日本の場合,最初の革新が産業の内部から生みだされるよりも,外国で完成されていた新技術の大量導入によってひきおこされたという点が,これまでの例ときわだって異なっている。敗戦でどん底に陥った産業活動が回復し,戦前の生産水準の最高をこえたのは1952年であるが,ちょうどそのころから外資に関する法律(外資法)の助けもあり,欧米に対し大幅に差をつけられた技術の遅れをとりもどすため,集中的な技術導入への努力が始まった。ナイロン,ポリエステル,アクリルなどの合成繊維,塩化ビニル,ポリエチレンその他のプラスチック,テレビ,トランジスター・ラジオ,洗濯機,冷蔵庫などの電機製品,こうした新商品群はすべて何らかの技術導入と結びついて生まれているが,大衆の好みにも受け入れられ急速に市場を拡大しながら活発な成長をひきおこした。欧米の場合こうした型の急成長がおこると,それが必ず関連した部門,たとえば素材部門や設備部門に隘路を生み,それを解決するために少しの時間遅れで新技術が誘発されるという型をとったが,日本の場合はそれは同時平行的な技術導入で解決された。たとえば家電産業の急成長,それに少し遅れておこった自動車産業の成長のひきずる膨大な薄板需要に関する鉄鋼業の技術問題は,ストリップ・ミルの導入,酸素上吹転炉の導入などによって同時平行的に解決されていた。こうした同時平行性は,電力,全国通信網,土木建設などの領域でもきわだっている。自力による技術開発の場合,一つの技術革新が,産業の相互連関をとおして他部門の技術革新を誘発するまでにはどうしても時間がかかるが,戦後の日本の場合,これが技術導入の方法で,相互に関連する部門で同時平行的におこったことが,高度経済成長の異常なスピードを生んだといえよう。その点の差はあるが,革新が相互に革新を呼びつつ,単に生産面にとどまらず企業の行動形態,大衆の消費行動や日常生活の型,都市の構造,ひいては社会全体のあり方まで一変させていった点は,産業革命期のイギリスや20世紀前半のアメリカの場合と同じであった。
技術導入という方法によっても,一国の産業のなかに技術革新効果をひきおこし,経済の活力ある成長をひきおこさせるという日本の経験は,第2次大戦後工業化にのりだした発展途上国をはげまし,技術導入による工業化という試みが流行したが,日本のように成功したところはない。これらの国々の経験と日本の場合を比べると,日本の場合は明治以後100年をかけてほぼ欧米と肩をならべる水準に近づいた工業力,技術力があって,そこへ戦争の空白期に欧米で完成された一群の技術がいっせいにもちこまれたことが,技術革新効果をひきおこしたことがわかる。革新が革新を連鎖的に呼びながら展開していく過程は,新技術さえもちこめば始まるというものではなく,産業と経済の発展,社会的諸条件と革新的技術とのダイナミックな相互関係のなかから生まれるものなのである。
現在多くの人の関心の集まっている問題は,マイクロチップ化の段階に達して大衆市場に入りこめるところまできたコンピューター技術,遺伝子組換え技術を軸にしたバイオテクノロジー,ロボットなどの一群の新技術が,世界的な規模での技術革新の新しい波をひきおこすかどうかということである。これらの新技術はまちがいなく従来の新技術の出現の時以上に革新的である。ただこれらの新技術は,従来の技術が主として人間の物的な消費にかかわっていたのと異なって,人間の精神生活,生物的生存,労働そのものといった側面に微妙にかかわってくる。したがって革新が革新を呼ぶ過程が,人々の日常生活や社会のあり方までに及んでくる局面では,影響は従来の場合よりもっと大きいであろう。どれくらいの変化に人間は耐えられるかということが,変化の速度をきめることになるだろう。
執筆者:中岡 哲郎
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…この語が経済学上の用語として定着したのは,J.A.シュンペーターが経済発展の根本現象として企業者・革新を理論の基礎に据え,それが一般に認められたことによる。今日ではイノベーションは〈技術革新〉とほとんど同義に用いられる。しかしシュンペーターは初め〈新結合neue Kombination〉という言葉を用い,生産要素(資本財,労働,土地)の結合の仕方,すなわち生産方法におけるいっさいの新機軸を表現し,これに新商品や新生産方法の導入のほか,新市場,資源の新供給源,新組織の開拓など,きわめて広範な事象を含ませた。…
…ここには,テーラー・システムが志向した生理的エネルギー放出の客観的標準化,それを基軸とした労働力管理そのものの形成・展開といった方向とは,若干異質の管理状況が生まれたのである。このような実態は,基本的には第2次大戦後の1950年代の技術革新期まで維持された。
【ホワイトカラー管理職の実態】
ホワイトカラー,広い意味での管理職・管理補助職の技能養成は,ブルーカラーの場合以上に個人的・経験主義的要素が支配的であった。…
…昭和30年代に入ると,白書の中心的課題は高度成長の秘密をさぐることに移ってくるようになった。たとえば,1956年度の白書で登場した〈技術革新〉という言葉は,経済成長の原動力であるinnovationの訳語であるが,その後広く一般に親しまれる言葉になっていった。また60年度白書は,技術革新に基づく近代化投資が,貿易構造や原料投入・製品産出上の産業構造の変化と並んで,〈消費革命〉を促し,それらがまた投資を促進するという〈投資が投資を生む〉経済全体の革新過程を分析した。…
※「技術革新」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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