摂津国衙跡(読み)せつつこくがあと

日本歴史地名大系 「摂津国衙跡」の解説

摂津国衙跡
せつつこくがあと

律令制下の摂津国の政庁国府の一区画をなす。奈良時代には摂津国の国務摂津職が兼帯していたが、延暦三年(七八四)に始まる長岡遷都に伴って難波なにわ宮が停廃され、さらにそれと関連して同一二年三月九日の太政官符(類聚三代格)に「宜職名国」とあるように、摂津職を改めて摂津国とされた。したがって、厳密には摂津国府はこれ以後独立した存在になったといえる。しかし国務を執るという点では摂津職と摂津国(司)は共通しており、摂津国府は摂津職の官舎・設備を受継いだと考えられる。摂津職の所在地については、(一)難波御津みつの所在したと推定される現南区三津寺みつてら町付近とする説、(二)現天王寺区国分こくぶ町とする説、(三)聖武朝の難波京内にあったとする説などがある。第一説は、摂津職は難波津の管理を担当するため、津の付近に所在したという理由によるが、摂津職の任務は津の管理だけでなく、難波京の管理や摂津国の財政訴訟軍事などの仕事をも含むから、第三説の京内にあったとする説のほうが妥当である。第二説は、国分の地名が国分寺または国府に由来すると考えられることによるが、難波京の京域内にはいる可能性があり、かつ朱雀大路の痕跡と推定される道路に接する地域であって、京内にはいるとすれば平安京左右京職の位置と条数は異なるが類似している点もあり、同地が摂津職所在地として好適と思われる。延暦一二年の摂津職の停止とともに、摂津国府に移行したのであろう。

「日本後紀」延暦二四年一一月二〇日条に「遷摂津国治於江頭、許之」とあって、摂津国府は江頭に移されたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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