鴻臚館跡(読み)こうろかんあと

日本歴史地名大系 「鴻臚館跡」の解説

鴻臚館跡
こうろかんあと

[現在地名]下京区朱雀〈正会町・堂ノ口町・宝蔵町〉

平安京に設置された外国使節接待施設。「拾芥抄」に「鴻臚館七条北、朱雀西、朱雀東、東西二町」とあり、その位置は朱雀大路を挟んで七条大路以北、七条坊門小路以南の方二町にあたる。朱雀大路東二町は東鴻臚館、西二町は西鴻臚館とよばれた。平安京開城当時は羅城門らじようもんの両脇に設置されたが、とう寺・西さい寺が建設されたため、弘仁年間(八一〇―八二四)に移転したという(河海抄・大内裏図考証)

外国使節の応接を管轄とするのは玄蕃寮であるが、唐名を鴻臚寺といったところから「鴻臚館」とよばれた。「職員令」玄蕃寮の条に「掌、(中略)蕃客辞見讌饗送迎、及在京夷狄、監当館舎事」とある、「蕃客」のための館舎がすなわち鴻臚館である。


鴻臚館跡
こうろかんあと

[現在地名]中央区城内

鴻臚館はおもに外国使節を迎接するための施設で、平安時代には平安京・難波なにわ筑紫つくし(大宰府)に置かれていた。大宰府鴻臚館(筑紫館)は当時博多湾に突き出していた半島状の丘陵、のちの福崎ふくざきに立地する。現在の国指定史跡福岡城跡の一角にあたり、三ヵ所の鴻臚館のうち唯一遺構が確認されており、鴻臚館自体も国指定史跡。

筑紫の場合は、「日本書紀」天武天皇元年(六七二)一一月二四日条に「新羅の客金押実等に筑紫に饗たまふ」とあるのをはじめ、新羅使などを「筑紫」において供応したという記事がしばしばみえ、同書の同二年一一月二一日条に「筑紫の大郡」、持統天皇三年(六八九)六月二四日条には「筑紫の小郡」、持統天皇二年二月一〇日条には「筑紫館」の名称もみえる。筑紫館つくしのむろつみは大宰府鴻臚館の前身施設と考えられるが、こうしたあり方は難波の場合も同様で、「難波の大郡」「難波の小郡」「難波館」が「日本書紀」にみえる。平安時代初期にこれらが鴻臚館と改称され、平安京鴻臚館とともに三ヵ所の鴻臚館となった。筑紫館はまずは新羅使の迎接・滞在に利用されたと想定されるが、「万葉集」巻一五に遣新羅使人らが筑紫館で詠んだ歌が載せられているように、遣新羅使・遣唐使など日本からの遣外使節の滞在にも用いられていた。入唐僧円仁も帰国直後の承和一四年(八四七)に大宰府鴻臚館に入住している(「入唐求法巡礼行記」同年九月一八日・一九日条)。平安京鴻臚館は渤海使との交易活動や漢詩文の贈答などの文化交流の場としても登場する。


鴻臚館跡
こうろかんあと

鴻臚館は外交使節の饗宴・宿泊のための施設で、平安時代には難波のほか大宰府と平安京に置かれていた。鴻臚館の名称自体は平安京の時代になってから称されたとみられるが、同じ機能を果す施設はそれ以前から存在していた。難波の場合奈良時代は難波館なにわのむろつみ(「続日本紀」天平勝宝四年七月二四日条)とよばれていたが、この名称は「日本書紀」では継体天皇六年一二月条に初見する。起源は六世紀にさかのぼるであろう。同書には高麗こま館・高麗館こうらいかん(推古天皇一六年四月条)百済くだら客館(皇極天皇二年三月一三日条)三韓みつのからひと館・三韓館さんかんかん(舒明天皇二年条)がみえるが、高句麗・百済・新羅からの使節の宿泊施設と考えられる。また隋・唐の使節のための館も作られ、総称して難波館と称したのであろう。このほかに外交をつかさどる役所として難波大郡なにわのおおごおり(「日本書紀」欽明天皇二二年条など)があった。

これらの館の正確な所在地は明らかでないが、「日本書紀」推古天皇一六年六月一五日条には、前年派遣された遣隋使小野妹子とともに来日した隋使裴世清一行の船が難波津に停泊したときのこととして、朝廷は飾船三〇艘を出して一行を江口えぐちに迎えさせ、さらに前もって「難波高麗館之上」に新築しておいた新館に滞在させたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「鴻臚館跡」の解説

こうろかんあと【鴻臚館跡】


福岡県福岡市中央区城内の旧平和台野球場外野席付近一帯から発見された古代の外国使節の宿泊・接待所跡。鴻臚館は平安時代に外交上の要地であった大宰府(だざいふ)・難波(なにわ)・平安京に置かれたが、遺構が確認されたのは筑紫館(つくしのむろつみ)とよばれたこの大宰府の鴻臚館のみである。大宰府の鴻臚館は博多湾の那津(なのつ)に置かれたが、663年(天智天皇2)の白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れると、大宰府は外国との交流、国防の機能を那津に残して内陸に移転。那津の鴻臚館と大宰府の間は約16kmあり、幅10mの直線道路が通じていた。鴻臚館は唐・新羅(しらぎ)・渤海(ぼっかい)の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として、また、日本から中国、朝鮮へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所として用いられ、官営の貿易商館でもあった。商船が到着すると大宰府から朝廷へ急使が向かい、朝廷から派遣された唐物使(からものつかい)という役人が、経巻や仏像・仏具、薬品、香料など宮中や貴族から依頼された商品を買い上げた。その後、北宋・高麗・遼の商人とも交易を行ったが、11世紀には聖福寺・承天寺・筥崎宮(はこざきぐう)・住吉神社などの寺社や有力貴族による私貿易が盛んになり、次第に鴻臚館での貿易は衰退し、館は11世紀半ばに焼失したとされる。跡地には江戸時代には福岡城が建ち、明治時代には軍が駐留し、第2次大戦後には平和台野球場ができた。古代の瓦や中国越州窯系青磁が採集され、1951年(昭和26)には鴻臚館遺構の一部と考えられる礎石が出土したが、本格的な調査はされなかった。本格的調査が始められたのは、歴史公園整備に着手してからのことで、1999年(平成11)から始まり現在も続けられている。発掘調査によって木簡や瓦類、越州窯青磁、長沙窯磁器、荊窯白磁、新羅・高麗産の陶器、さらにイスラム圏の青釉陶器やペルシアガラスなどが出土し、2004年(平成16)に国の史跡に指定された。跡地は芝が張られて整備され、隣接する鴻臚館跡展示館に検出された遺構や出土した遺物が展示されている。福岡市地下鉄空港線赤坂駅下車、徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「鴻臚館跡」の解説

鴻臚館跡

(福岡県福岡市中央区)
福岡県文化百選 歴史散歩編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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