日本歴史地名大系 「鴻臚館跡」の解説
鴻臚館跡
こうろかんあと
平安京に設置された外国使節接待施設。「拾芥抄」に「鴻臚館
外国使節の応接を管轄とするのは玄蕃寮であるが、唐名を鴻臚寺といったところから「鴻臚館」とよばれた。「職員令」玄蕃寮の条に「掌、(中略)蕃客辞見讌饗送迎、及在京夷狄、監当館舎事」とある、「蕃客」のための館舎がすなわち鴻臚館である。
鴻臚館跡
こうろかんあと
鴻臚館はおもに外国使節を迎接するための施設で、平安時代には平安京・
筑紫の場合は、「日本書紀」天武天皇元年(六七二)一一月二四日条に「新羅の客金押実等に筑紫に饗たまふ」とあるのをはじめ、新羅使などを「筑紫」において供応したという記事がしばしばみえ、同書の同二年一一月二一日条に「筑紫の大郡」、持統天皇三年(六八九)六月二四日条には「筑紫の小郡」、持統天皇二年二月一〇日条には「筑紫館」の名称もみえる。
鴻臚館跡
こうろかんあと
鴻臚館は外交使節の饗宴・宿泊のための施設で、平安時代には難波のほか大宰府と平安京に置かれていた。鴻臚館の名称自体は平安京の時代になってから称されたとみられるが、同じ機能を果す施設はそれ以前から存在していた。難波の場合奈良時代は
これらの館の正確な所在地は明らかでないが、「日本書紀」推古天皇一六年六月一五日条には、前年派遣された遣隋使小野妹子とともに来日した隋使裴世清一行の船が難波津に停泊したときのこととして、朝廷は飾船三〇艘を出して一行を
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報