教授免許(読み)きょうじゅめんきょ

大学事典 「教授免許」の解説

教授免許[羅]
きょうじゅめんきょ
licentia docendi

[リケンティア・ドケンディ=教授免許の発生]

ヨーロッパに大学が成立するのは,12世紀頃からの都市の成立・発展や「十二世紀ルネサンス」と呼ばれる文化的潮流を背景とする動きの中においてである。その最初の動きは,12世紀末から13世紀初頭においてボローニャパリに誕生した団体であったが,それぞれ「学生大学団(イタリア)」(universitas scolarium),「教師と学生の大学団(フランス)」(universitas magistrorum et scolarium)と呼ばれた。この団体は形成期において,当時,地域の教会裁治権者であった司教や教会参事会の教育監督者,カンケラリウス(文書局長)と教授免許授与権をめぐって激しく対立,抗争を繰り返すこととなった。カンケラリウスが主催して行った試験(個人試験(フランス)(イタリア):examen privatum)の結果,司教区内で教授活動を認めるものとして授与されたのがリケンティア・ドケンディ(フランス)(イタリア)(licentia docendi)=教授免許(フランス)(イタリア)あるいは教師免許状(フランス)(イタリア)であった。

 その出現の時期については明確でないが,画期であったのは,ローマ教皇アレクサンデル3世が招集した1179年の第3回ラテラノ公会議の決議であるといわれる。そこでは,カンケラリウスは教授免許の授与に際して謝礼を受け取ってはならず,十分な資格のあるすべての希望者に免許状を与えるよう命じられている。司教やカンケラリウスは,この教授免許授与権をてこに,新生間もない教師と学生の団体(大学団)を自己の裁治権の下に置こうとしたが,最終的に失敗に帰す。なお,大学団の指標として,新入会員採用権および学位授与権,規約を制定し,その遵守を成員に要求する権利,役員の選出,印璽の保有が指摘されている。

[リケンティア・ドケンディ授与をめぐる教会権力と大学団の相克]

パリでは,12世紀末から13世紀初頭にかけて,伝統的に教育を教会の責務の一つと捉えていた司教やカンケラリウスは教授免許授与権を容易に放棄せず,大学の教師たちが彼らに服従することを要求した。こうした争いに教皇庁(イタリア)が介入する。教皇の干渉は,この対立構造の局面を大きく変えることになるが,総じて13世紀の教皇たちは大学の発展を歓迎した。なぜなら,教皇たちは大学という機関に知的活動の重要さとその価値を認めるとともに,当時出現していた異端運動に対するカトリック教会の正統信仰擁護の研究機関であることを望んだからである。パリにおいてカンケラリウスは,こうした教皇の介入により,実質的に1213年教授認可を授与する特権を失った。1219年最終的にカンケラリウスのこの特権は失われ,この権限は大学に移譲された。その結果,大学団は自ら行う試験(公開試験(フランス):examen publicum)により,マギステルやドクトル学位を授与することになったのである。

 ボローニャでは,12世紀に教授免許を授与する権限は,教会にはなかった。法学のマスターやドクターが志願者に試験を行い,免許を授与していた。しかし,1219年教皇ホノリウス3世(在位1216-27)が助祭長に教会の名において教授免許を授与する権限を与えている。ここでも,教皇の意図は利害を離れたものではなく,ボローニャの法学校を教皇の教育監督制度の中に取り込むことであった。

[万国教授免許と大学]

中世において,アカデミックな教育機関を示す言葉はウニヴェルシタス(ヨーロッパ)(universitas)よりストゥディウム(ヨーロッパ)(studium)であった。13世紀になると,このストゥディウムにさまざまな形容詞が付加されて使われるようになる。たとえばストゥディウム・パルティキュラーレ(studium particurale)あるいはストゥディウム・ゲネラーレ(studium generale)がそれである。

 13世紀初頭,ストゥディウム・ゲネラーレという言葉はいまだ一般化しておらず,その呼称も慣例によっていた。一般に,ストゥディウム・ゲネラーレの意味するところは,ヨーロッパのあらゆるところから学生が集まる場所であり,高等の諸学科(神学,法学,医学)の少なくとも一つが教えられたこと,また,複数の教師がそうした学科を教える場であった。このような意味内容に重要な変化がみられるようになるのが,13世紀後半になってからである。つまり,ストゥディウム・ゲネラーレの創設は,中世において普遍的権威であった教皇や神聖ローマ皇帝によらなければならないという考えが一般化してきた。と同時に,他のストゥディウムと異なり,そこに学ぶ者には任地を離れても,一定の期間,聖職禄が認められた。また,そこで教授資格を得た者は,全キリスト教国で教えることができる「万国教授免許(licentia ubique docendi)」あるいは「万国教授資格(ius ubique docendi)」を持つことが認められた。教皇ニコラウス4世は,ボローニャ大学(イタリア)(1291年),パリ大学(フランス)(1292年)に上記の特権を認めている。これにより,両大学はこの万国教授資格を認められ,教会の保護を受けるとともに統制の下に置かれることになった。

 しかし,この全キリスト教国において通用性をもった万国教授資格(ヨーロッパ)は,14世紀を境としてその通用性に限界が見られるようになる。その背景にはフランスやイギリスにおける国民国家形成の開始や,当時の社会の変貌にともなう大学教師たちの意識の変化があった。すなわち,国民国家形成と関連して,大学の新設の増加が(ラシュドールによれば,12世紀:6大学,13世紀:18大学,14世紀:22大学,15世紀:34大学),大学や学位の国家・地域化を促進する。また14世紀に本格的に始まる俸給制は,大学の教師を国・地域の政治体制に組み込むことになった。また,大学人たちの意識変化に関して,万国教授資格の出現当初より,学位課程のレベルの違いを根拠にした,大学間相互の学位認証に障壁が設けられることになった。さらに外部からの教師の自由な流入は,いまだその収入を学生の聴講料に頼っていた教師の収入減をもたらすことになった。とくに,このことは上級学部の学生でもあった学芸学部の教師たちにとっては,生活上の死活問題であったため,教師の自由な流入を歓迎しなかった。

 このように万国教授資格の通用性は,ストゥディウム・ゲネラーレの重要な法的属性の一つであったが,14世紀以降,徐々に形骸化していった。ここに,近代以降,学位が国家・地域の枠内で生産,適用されることになる動きの端緒を認めることができよう。
著者: 松浦正博

参考文献: H. ラシュドール著,横尾壮英訳『大学の起源―ヨーロッパ中世大学史』上・中・下,東洋館出版社,1968-70.

参考文献: 児玉善仁『イタリアの中世大学―その成立と変容』名古屋大学出版会,2007.

参考文献: A.E. Bernstein, Magisterium and License: Corporate Autonomy against Papal Authority in the Medieval University of Paris, Viator, vol.9, 1978.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の教授免許の言及

【大学】より

…他方,神学研究の中心地たらしめんとしたパリでのローマ法研究を禁じたことにみえるように,その統制をもはかった。元来一大学にのみ有効であった〈教授免許licentia docendi〉を,普遍的有効性をもつ〈国際教授免許jus ubique docendi〉として承認したのも教皇庁である。一方,大学の発展に促されて(後に〈大学〉は,〈教皇権〉〈皇帝権〉と並称された),13世紀以降,とくに14~15世紀に,都市や皇帝・国王も,その威信と官僚養成をめざして,大学の創設に積極的に加担した。…

※「教授免許」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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