西方教会の最初の教父,護教家。北アフリカのカルタゴに生まれ,弁論術と法律学を学んだのち,ローマに渡って法律家として働いていたが,195年ころ回心し,帰国して教会のために一生を捧げた。ただし司祭であったか教師であったか,明らかでない。残存する著作の多くはマルキオン,プラクセアスPraxeas,モンタヌスらの異端との論争で(一時モンタヌスの霊的運動に参加したことがある),反グノーシス教父のひとりに数えられる。〈キリストは肉となった。これは愚かであるがゆえに信じうる〉(《キリストの肉について》5章)という言葉は,〈不合理なるがゆえに信ずcredo,quia absurdum est〉の典拠とされる個所である。彼はギリシア哲学を〈異端の父〉とし,もっぱら聖書に即して三位一体論,キリスト論,救済史を考え,〈ペルソナ〉〈経綸〉などその多くはのちの正統神学に採り入れられた。しかし哲学への敵視にもかかわらず,ストア学派のロゴス思想と霊魂観を援用したために,霊魂と身体(肉)の区別を明確にしえなかったということがある。彼は初代教会の霊的権威に代えて職制の権威をおき,さらに救済を倫理的・法律的にとらえてローマ法の刑罰,報酬,功績の概念で表現したが,これらのことはのちに訂正を受けつつも西方教会に共通のものとなった。
執筆者:泉 治典
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2~3世紀のキリスト教護教家。北アフリカのカルタゴで異教徒のローマ軍百人隊長の家庭に生まれる。若き日に相当高度の学問的な訓練を受け、とくに法律学、修辞学に造詣(ぞうけい)が深かった。ローマで弁護士として名声を博したが、30歳のころ、殉教者たちの確固とした態度に打たれてか、キリスト者となって故郷に帰り、教会のなかで活発な文筆活動に没頭した。しかし47歳のころ教会から離れ、妥協を極度に嫌う峻厳(しゅんげん)な性格からモンターヌス派(異端とみなされたキリスト教の一派)に共感を示したが、やがて自分の党派テルトゥリアヌス主義の指導者になった。少なくとも222年以後高齢で没した。彼は最初のラテン教父、護教家として、『キリストの肉について』など多くの著作を通して活躍した。燃えるような信仰心、透徹せる理解力、きわめて魅力のある弁舌は、彼の護教家としての活動に精彩を添え、三位(さんみ)一体論や原罪論に根拠を与えた。また「キリストの復活は不合理であるがゆえに信じられる」など、逆説的な命題に知解を求める心情を託した。
[中沢宣夫 2017年11月17日]
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150/160~220?
古代キリスト教のラテン教父。カルタゴ生まれ。ローマで法律家として活動後,キリスト教に改宗,正統教理の弁証に努めたが,のちモンタニズムに移った。主著は『護教論』。
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…1世紀の終りにローマのクレメンスは,監督・長老職を教会における権威として立てたが,これはパウロ的伝統の延長とみなされる。また3世紀のテルトゥリアヌスは,赦罪に関する倫理的法の体系を立てたほか,ローマにおけるペテロ伝承に従ってローマ教皇の首位権を主張し,のちにカルタゴの司教キプリアヌスがこれを固定化した。教皇カリストゥス1世Callistus I(在位217‐222)がローマとビザンティンの政治的対立を和らげようとしたのに対し,キプリアヌスはローマ教会の優位にもとづく教会の一致こそ第一のものだとして,普遍的教会(エクレシア・カトリケekklēsia katholikē)の理念を示した。…
…キリスト教文学が最初の1~2世紀間もっぱらギリシア語によっていたのは,このような事情にもよるものである。しかしラテン語使用の端を開いた雄弁家テルトゥリアヌスより以前に,ラテン語訳聖書《ウルガタ》の原型,いわゆる《イタラ》は始められていたらしい。3世紀に激成された帝国の不安は4世紀にはいちじるしく進行して地方の分立が目だち,教義上の文献もラテン語によるのが通例となった。…
…東方教会(そのうち最も重要なのは東方正教会)の神学の基礎と伝統はここにある。ラテン語による神学は西方神学(またはラテン神学)と呼ばれ,2世紀末のテルトゥリアヌスにはじまり,5世紀初のアウグスティヌスにおいて大成を見たものである。中世の西方神学はこの伝統に立ち,ローマ・カトリック教会の神学を形成した。…
…しかし同書8章によれば,霊による救いのゆえに罪は死んだといわれ,そこで罪は象徴化されて〈むさぼり〉と規定されている。 2世紀以後の教会では,罪の赦しをサクラメントに結びつけて教会内に固定する傾向が強く,赦罪の方法と順序を法的に規定したテルトゥリアヌスの考えが長く尾を引いた(贖宥)。神学においては,罪の赦しは無償か有償か,全面的か部分的か,代理的か自力的かが論じられた。…
…ミヌキウス・フェリクスMinucius Felixの対話編《オクタウィウス》は,現存する最古のラテン語によるキリスト教の文献であるが,すでに古典の教養との妥協が図られている。キリスト教未公認時代最大のキリスト教ラテン作家はテルトゥリアヌスであったが,後世に与えた影響はキプリアヌスの方が大きかった。313年のキリスト教公認を境に,4世紀から5世紀にかけて,《マタイによる福音書》を叙事詩にしたユウェンクスJuvencus,雄弁家ラクタンティウス,賛美歌作者で人文主義に反対した神秘主義者アンブロシウス,古代最大のキリスト教ラテン詩人プルデンティウスとその後継者ノラのパウリヌスなどが活躍したが,古代最大の2人のキリスト教作家も続いて現れた。…
※「テルトゥリアヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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