改訂新版 世界大百科事典 「敦煌莫高窟」の意味・わかりやすい解説
敦煌莫高窟 (とんこうばっこうくつ)
Dūn huáng mò gāo kū
中国,甘粛省敦煌県の県城の南東17kmにある仏教石窟。敦煌千仏洞ともいう。敦煌周辺にある西千仏洞,楡林窟,水峡口窟とあわせて四つの石窟群のうち最も規模が大きく,造営期間が4世紀より千年の長さに及び,壁画,塑像など優れた遺品がすこぶる多い。1900年(光緒26)道士王円籙によって,一小窟(現在の第17窟)から4~5万点にのぼる古写本等の古文書や画巻が発見され,世界的に敦煌学が起こるきっかけとなった。莫高窟は1737年(乾隆2)常鈞が《敦煌雑抄》で紹介しているが,その学術研究は1823年(道光3)徐松が《西域水道記》に碑文と銘を記録し,莫高窟の草創を考証したのが始まりである。1907年以来イギリスのM.A.スタインは数回にわたり経巻・古写本約7000点,画巻500点余,刺繡150点余を持ち去った。08年にはフランスのP.ペリオが5000点余りの古写本と約150点の画巻を持ち出すとともに,各窟に番号をつけ,壁画の写真を公刊した。さらに11年には日本の大谷探検隊が,14年にはロシアのオルデンブルグが,王円籙を通じてそれぞれ多数の経巻を購入している。なお,中国に残された文書約9000点は,北京図書館に収蔵された。20世紀前半期は,これら敦煌古写本による文献的研究が主流を占めている。41年に至り,中国の画家による壁画の模写が行われ,44年には中華民国政府が敦煌芸術研究所を設立,壁画の模写と調査を進めた。同研究所は解放後51年に敦煌文物研究所と改められ,石窟保護と補修工事にあたるとともに,壁画の模写を積極的にすすめて国内外に展観し,敦煌美術の紹介につとめてきた。近年になって,研究所の仕事の重点は模写から遺跡の考古学調査と文物の学術研究に移行したが,主な成果として敦煌文物研究所の学報《敦煌研究》の発行,《敦煌莫高窟》5巻(1980-82)の公刊などがあげられる。
石窟は大泉河に面した鳴沙山東麓の断崖に,南北約1600mにわたり約600の窟龕(くつがん)が,上下数段に重なりあって開かれている。断崖は砂と小石が混入した礫岩で粗いことから,窟の内部を泥土で平らに整えて壁画を描き,粘土で塑像をつくり彩色を施している。塑像や壁画がある窟龕は主として約1000mにわたる南側の地区であり,敦煌文物研究所によって窟番号を付された窟龕は492にのぼる。
敦煌莫高窟の草創についての記載は,698年(聖暦1)の李懐譲《重修莫高窟仏龕碑》が最も古い。碑文によると,366年(建元2)楽僔(がくそん)が千仏を見て窟を開き,続いて法良禅師がさらに1窟を造営したのがその始めと述べている。碑文に述べる内容は第156窟に墨書された《莫高窟記》にも踏襲されているが,第17窟から出た949年(乾祐2)の《沙州土鏡》残巻には,353年(永和9)に草創されたとしている。しかし,この文書が書かれた年代がおそく,他には353年説がないので,366年説が有力である。
敦煌莫高窟に現存する最古の窟は,第275窟など3窟がその様式から北涼後期(5世紀初め)と考えられ,楽僔草創の窟は現存しない。続いて北魏,西魏,北周,隋,唐,五代,北宋,西夏,元にわたり石窟の造営と改修が行われた。窟龕にのこる尊像は2415体,壁画は4万5000m2余にのぼる。そのほか,唐・宋代の木造建築による庇(ひさし)(ポルティコ)5基が完全に保存されている。
北涼から北周(397-581)に至る北朝期の石窟は主として禅定窟,塔廟窟,伏斗形方窟の3種があり,禅僧の修行の場として開かれたことが知られる。初期の窟中に漢闕(かんけつ)形式の屋形龕を開き,窟頂に化粧垂木(たるき)をあらわすなど中国様式が進む一方,伏斗形格(ごう)天井は三角持送り式(ラテルネンデッケ)で飾るなど西方様式の融合も見られる。主尊は仏倚像,菩薩交脚像などが多く,弥勒信仰(みろくしんこう)が盛んであったことがわかる。北涼から北魏前期にかけての塑像は体軀に充実した力がみられ,西域の影響のもとに完成した涼州(甘粛省河西地区)様式を示す。北魏の後期には北魏の宗室元栄(後の東陽王)が,洛陽から敦煌地区の瓜州刺史に任ぜられたことにより,尊像に中国服制を採る竜門様式が流行した。北朝の壁画は仏伝,本生(ほんじよう)(ジャータカ),譬喩(ひゆ)(アバダーナ)など本縁説話を主題として壁面の中央を占めている。その周囲に千仏を表し,天井に接する最上方に天界の伎楽天,下方に供養者列像,床に接する最下方に薬叉をそれぞれ描いている。本縁説話は修行僧と衆生に対する教化に欠くことのできない役割を果たした。西魏の窟には,天井に中国の伝統的伝説にもとづく西王母,東王公,伏羲(ふくぎ),女媧(じよか),四神などが表されている。
隋・唐時代は,中国全土の統一国家達成と経済的発展により,敦煌がますます重要な地位を占め,中原との連携が密になったことを反映し,莫高窟では中国本土の仏教美術が流行した。高さ33mの北大像(第96窟)や,26mの南大像(第130窟)が造営されたのは莫高窟が最も繁栄した初唐から盛唐期である。窟形式は塔廟窟が衰退し,奥壁に大きな龕を開く伏斗式窟が主流になる。隋代の塑像は北周様式の継承とそれからの脱却という道をたどり,中原様式に近づいていった。唐代の塑像は長安,洛陽で完成されたみやびな典型様式を忠実に反映するとともに,写実的な傾向が高まり,尊像の性格の追求,精神内容の描写に意をつくしている。像の形式は隋初期の仏倚像から中期以降には結跏趺坐(けつかふざ)像が主流になり,北朝に流行した菩薩交脚像や思惟像も姿を消した。さらに説法相の座仏を中心とした二羅漢,二菩薩,二天王が侍従する七尊形式が成立し,四天王も出現する。このような尊像配置は唐代においても継承され,造像構成の基本となった。この種の群像は,浄土思想の流行によるものと考えられる。
壁画は隋代前期に本生図が描かれるが,隋後期から唐代には浄土図などの経変が主流を占めるようになる。隋代後期における経変の増加は,唐に入ると急速に大型化に向かい,樹下説法図の周囲に描かれていた千仏は,四壁から天井に移されていく。唐代に流行した経変には阿弥陀経変,法華経変,観無量寿経変,弥勒経変,維摩詰(ゆいまきつ)経変,東方薬師経変,涅槃(ねはん)変,労度叉(ろうどしや)闘聖変などがあるが,阿弥陀経変と観無量寿経変が最も多くその数は全体の50%にあたる。経変画は主尊と脇侍,周辺の楼閣,宝池が有機的に構成され,尊像や天部,供養者などの描法も洗練され,ますます円熟の度を加えている(変相図)。とりわけ維摩経変にみられる巧みな性格描写と迫真性に,唐代の人物観照の深さがうかがわれる。法華経変などの奥行きのある山水描写も貴重である。しかし,中唐に至って敦煌が吐蕃に占領されると,数の上では唐代盛期をしのぐものの,内容は煩雑になり型にはまり芸術的には急速に衰退に向かう。
張氏と曹氏が支配した帰義軍期には各種の経変はどの窟も千篇一律ともいえる類型的傾向がさらに進み,尊像や供養者の容貌には精神性を求めることができない。その中にあって宋代の第61窟奥壁に描かれた壮大な〈五台山図〉は,霊異現象が出現する五台山信仰を反映するものであるが,山々に点在する堂塔伽藍,下段の街や道中風景に当時の風俗と庶民生活を知る勝跡図として貴重である。元代の窟にはチベット系の密教絵画が現れ,北朝後期以来,中原絵画の基調を保持していた敦煌壁画も大きな転換期を迎える。しかし,第3窟の南・北壁に描かれた千手千眼観音像には,鉄線描と肥瘦のある流暢(りゆうちよう)な描線を使い分け,中原の伝統的手法が脈々と伝承されていることがうかがわれる。明代になって1524年(嘉靖3),嘉峪関の閉鎖とともに莫高窟の造営も終焉を迎えた。
執筆者:鄧 健 吾
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