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敦煌莫高窟 とんこうばっこうくつDun-huang mo-gao-ku

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

敦煌莫高窟
とんこうばっこうくつ
Dun-huang mo-gao-ku

中国,カンスー (甘粛) 省トンホワン (敦煌) 県のミンシャーシャン (鳴沙山) にある大石窟 (千仏洞) 。前秦,北魏,西魏,北周,隋,唐,五代,宋,元代に続営され,今日知られる石窟だけでも総数 490ヵ所以上に達している。 1907年イギリスの M.A.スタインが,1908年にはフランスの P.ペリオが数多くの古文書,絵画,工芸品を持ち帰り,石窟を紹介した。さらに,ロシア,アメリカ,日本の探検隊が相次いで訪れ,中国の陳方里,向達,張大千らも調査を行なったが,解放後は敦煌文物研究所が開設され,調査研究が進められている。石窟内に描かれた壁画は壁面に漆喰を塗り,その上に描いたもので,仏教経典の広範な内容を主題とし,西方様式と中国様式の共存が認められる。また,石窟内に安置された塑造の仏像にもインド様式の影響が顕著にみられ,西方の作風が敦煌を経由して中国にもたらされたことが,明確に示されている。これらの膨大な文書や絵画をもとに「敦煌学」と呼ばれる新たな研究分野が生まれた。 1987年世界遺産の文化遺産に登録。

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百科事典マイペディアの解説

敦煌莫高窟【とんこうばっこうくつ】

中国,甘粛省敦煌県南東の鳴沙山山腹にある石窟寺院群。敦煌千仏洞ともいう。4世紀中ごろ前秦の僧楽【そん】が開掘したのに始まり,13世紀まで掘り続けられてその数は500窟近くに達し,西域仏教の中心となった。
→関連項目宝相華文六朝文化竜門石窟

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世界大百科事典 第2版の解説

とんこうばっこうくつ【敦煌莫高窟 Dūn huáng mò gāo kū】

中国,甘粛省敦煌県の県城の南東17kmにある仏教石窟。敦煌千仏洞ともいう。敦煌周辺にある西千仏洞,楡林窟,水峡口窟とあわせて四つの石窟群のうち最も規模が大きく,造営期間が4世紀より千年の長さに及び,壁画,塑像など優れた遺品がすこぶる多い。1900年(光緒26)道士王円籙によって,一小窟(現在の第17窟)から4~5万点にのぼる古写本等の古文書や画巻が発見され,世界的に敦煌学が起こるきっかけとなった。莫高窟は1737年(乾隆2)常鈞が《敦煌雑抄》で紹介しているが,その学術研究は1823年(道光3)徐松が《西域水道記》に碑文と銘を記録し,莫高窟の草創を考証したのが始まりである。

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世界大百科事典内の敦煌莫高窟の言及

【敦煌】より

…ちなみに,現在の県城は1725年(雍正3)にできたもので,それ以前の町は3km南西の地点にあり,今では周囲をポプラにかこまれた土の城壁の一部を残しているだけである。 敦煌の名がとくに有名になったのは,県城の南東17kmにある鳴沙山東麓に仏教の大石窟群,敦煌莫高窟があり,今世紀の初頭に,その第17窟,蔵経洞とよばれる仏洞から大量の経巻や古文書,書画の類が発見され,世界の東洋学および仏教美術の研究に寄与したためであった。1907年(光緒33)以来,イギリスの探検家M.A.スタインとフランスの東洋学者P.ペリオ,日本の大谷探検隊などがもたらした古文献や書画が,南北朝・隋・唐時代の中国の社会経済史や古文書学,仏教あるいは美術や俗文学(変文)といった研究に刺激を与え,活発ならしめた貢献は,確かに特筆に値する。…

【敦煌学】より

…中国,敦煌莫高窟(千仏洞)から発見された古文献を研究する学問。千仏洞の壁画,彫塑の研究を含めることもある。…

※「敦煌莫高窟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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