仏教聖典を総集したもの。〈一切経(いつさいきよう)〉〈三蔵(さんぞう)〉とも呼ぶ。元来,〈大蔵経〉の呼称は漢訳の〈三蔵〉に若干の中国人の撰述書を加えたものを指したが,現在ではその他の国語によるものも広く総称する。すなわち,漢語のほかに,パーリ語,チベット語,モンゴル語,満州語のものがあり,西夏語のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じて扱われる。また,元来は〈大蔵経〉に編入される書物の基準は厳格に決められ,それ以外のものは〈蔵外(ぞうがい)〉と称されたが,近年日本で編纂されたものでは,より広範囲のものも含めている。
〈三蔵〉とはティピタカtipiṭakaの訳,三つの容器の意。経・律・論の三部よりなるところからこう呼ばれる。経(スッタsutta)は釈迦や弟子たちの言行録,律(ビナヤvinaya)は教団の戒律規定,論(アビダンマabhidhamma)は哲学的理論を展開したものである。釈迦の滅後,その教えを正しく伝えるために,弟子たちは〈結集(けつじゆう)〉(経典編集の集会)を開き,経典整理を開始したが,仏滅後100~200年ころには教団は多くの部派に分裂し,それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われるが,完全な形で現存するのは,スリランカに伝えられた上座部系のパーリ語三蔵のみで,現在,スリランカ,タイ,ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は以下の通りである。(1)律蔵 経分別(戒律の本文解説),犍度(けんど)(教団の制度規定),付録。(2)経蔵 長部,中部,相応部,増支部,小部の5部。前4部は漢訳《阿含経(あごんきよう)》に相当。(3)論蔵 法集論,分別論,界説論,人施設論,論事論,双対論,発趣論の7部。
これらは前2~前1世紀ころまでに徐々に形成されたもので,前1世紀ころにスリランカに伝えられたといわれ,以後,多くの蔵外の注釈書,綱要書,史書等が作られた。19世紀末ロンドンにパーリ聖典協会Pāli Text Societyが設立されて原典の校訂出版等がなされ,日本では若干の蔵外文献も含めて《南伝大蔵経》65巻(1935-41)に完訳されている。
仏典のチベット語訳は,7世紀ソンツェン・ガンポ王の時代にトンミサンボータによって始められ,13世紀ころには大蔵経が木版で刊行された。チベット大蔵経はカンギュル(甘殊爾)とテンギュル(丹殊爾)からなり,前者は経・律,後者は論を収める(カンギュル・テンギュル)。その中には,大乗の経論,とくに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献を多く含んでおり,チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く,原形に還元しやすいことと相まって,インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。幾度も開板されたが,18世紀のデルゲ版,ナルタン版,北京版などが重要。なお,チベット人の著作はすべて蔵外とされる。
執筆者:末木 文美士
中国における経律論三蔵の漢訳事業は2世紀後半から始まり,11世紀末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い,訳経の収集や分類,経典の真偽の判別が必要となり,4世紀末には道安によって《綜理衆経目録》が,6世紀初めには僧祐によって《出三蔵記集》が作成された。これらの衆経ないし三蔵を,北朝の北魏で〈一切経〉と呼び,南朝の梁で〈大蔵経〉と呼んだといい,隋・唐初に及んで両者の名称が確立し,写経の書式も定着した。隋・唐時代にも多くの仏典目録が編纂されたが,最も重要なのは730年(開元18)に完成した智昇撰《開元釈教録》20巻である。智昇は,南北朝以来の経典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し,そのうち大乗経典を般若,宝積,大集,華厳,涅槃の五大部としたうえで,大蔵経に編入すべき仏典の総数を5048巻と決定した。ここに収載された5048巻の経律論などは,それ以後の大蔵経(一切経)の基準となった。大蔵経典は,黄巻赤軸の装丁を施され,およそ10巻ずつを竹や布帛の経帙に包み,480帙として架蔵され,後には検出の便宜上,《千字文》による函架の番号をつけて経蔵に安置された。
木版印刷による最初の大蔵経は,宋の太祖・太宗の両朝,971年(開宝4)から983年(太平興国8)にかけて蜀で雕造され,国都の開封で印刷出版された。〈蜀版大蔵経〉と呼ばれ,毎行14字詰の巻子本の形式であった。これは宋朝による正法流布の功徳事業であったので,西夏,高麗,日本などの近隣諸国に国際友誼の意味をこめて贈与された。983年の年末に入宋した東大寺僧の奝然(ちようねん)は,離京に際して新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを賜ったのである。この大蔵経の下賜をうけた高麗は,11世紀前半に覆刻版を出し,その版木が元軍による兵火で焼失すると,13世紀中葉には再雕本を完成させた。今も海印寺に板木を収蔵する再雕本の〈高麗大蔵経〉は,最良のテキストとして高く評価されている。南宋から明代にかけても各地で大蔵経の雕造が続いたが,明末に新しい形式の袋綴じ方冊本の〈万暦版大蔵経〉が出版された。
執筆者:礪波 護
日本では中国の漢訳仏教を摂取したので,近代にいたるまで漢文の大蔵経を継承してきた。735年(天平7)玄昉(げんぼう)が将来したという経論五千余巻は,そのころ中国に成立した欽定大蔵経とみられる。983年入宋の奝然による将来を経て,平安時代末から鎌倉時代にかけては,宋版一切経が輸入された。これに努めたのは栄西,重源,慶政その他の入宋僧であった。大蔵経開版の企ては,日本においても中世にすでにあったが実現せず,近世にいたり,南光坊天海による寛永寺版(天海版)が徳川幕府の支援をうけて1648年(慶安1)完成,次いで鉄眼道光が庶民の結縁により黄檗(おうばく)版一切経を1681年(天和1)完成した。近代に入り,明治時代には,1885年縮刷大蔵経が刊行され,つづいて《卍字蔵経》が1905年に,《大日本続蔵経》が12年に完成したが,その後の仏教界や仏教研究に寄与したのは,高楠順次郎・渡辺海旭監修の《大正新脩大蔵経》100巻で,高麗海印寺本を底本として諸本と校合,24年から34年にいたる歳月を費やし,正蔵(55巻),続蔵(30巻),昭和法宝目録(3巻),図像部(12巻)を収めるこの大蔵経は,基本的テキストとして用いられている。一方,漢文蔵経の訓読も行われ,《国訳大蔵経》《国訳一切経》《昭和新修国訳大蔵経》などがある。
執筆者:高木 豊
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漢文に訳された仏教聖典の総称。一切経(いっさいきょう)ともいう。詳しくは漢訳大蔵経といい、略して蔵経という。チベット文のものを『西蔵(チベット)大蔵経』と称するごとく、現在では仏教聖典を集成したものについて広く転用される。本来は経(きょう)・律(りつ)・論(ろん)の三蔵を中心とした仏教典籍の総集をさすが、広義には中国、朝鮮、日本の撰述(せんじゅつ)書を含む。中国南北朝時代には一切衆蔵経典(いっさいしゅうぞうきょうてん)、一切経蔵の呼称がみられ、『天台智者(ちしゃ)大師別伝』には大蔵経の名がみえる。中国で初めて経典を翻訳したのは、後漢(ごかん)の桓(かん)帝の代148年(建和2)ごろ、洛陽(らくよう)にきた安息国の安世高(あんせいこう)である。おもに小乗経典を訳したが、霊帝の光和(こうわ)・中平(ちゅうへい)年間(178~189)に支婁迦讖(しるかせん)が翻訳したものは大乗経典であった。その後、各時代にわたって翻訳が行われ、元(げん)の時代まで1000年以上も続く。
当初は、各自が書写して伝えたが、数の増大とともに正しく伝承し護持するために、訳された経典の目録がつくられた。もっとも古い目録は、前秦(しん)の道安(どうあん)の手になる『綜理衆経(そうりしゅうきょう)目録』(『道安録』とも略称される)である。これは、それまでの翻訳経典を分類整理して、(1)撰出経律論録、(2)異出経録、(3)古異経録、(4)失訳経録、(5)凉(りょう)土異経録、(6)関中異経録、(7)疑経録、(8)注経・雑経志録の8部に分かち、639部886巻を収めたとされる。この目録は現存しないが、梁(りょう)代に僧祐(そうゆう)がこれに基づき、さらに増補して『出三蔵記集(しゅつさんぞうきしゅう)』を著した。これが現存最古の優れた経録であり、『道安録』のおもかげをも伝えている。さらに隋(ずい)代には『法経(ほうきょう)録』、『彦琮(げんそう)録』(『仁寿(にんじゅ)録』ともいう)、『歴代三宝紀(れきだいさんぽうき)』がつくられ、唐代には『静泰(じょうたい)録』『大唐内典(だいとうないてん)録』『開元(釈教)録』『貞元(じょうげん)録』などが著された。これらの諸経録において、大・小乗、経律論などの分類・組織がしだいに確立され、とくに『開元録』に至って、もっとも完璧(かんぺき)な目録が出現した。その入蔵録に示されている1076部5048巻という部数・巻数は、大蔵経を新しく書写・入蔵する際の信頼すべき標準となった。俗に「5000余巻の大蔵経」といわれるのは、これに基づく。その後も、新訳経の追加や遺漏の補充がなされ、大蔵経の規模はますます大きくなり、中国人の著作も入蔵を許されるようになった。
木版印刷の技術は唐代には開発されていたが、これを大蔵経に応用したのは宋(そう)代になってからである。これまでは写本の大蔵経であったが、この時代から刊本の大蔵経がつくられる。宋の太祖は971年(開宝4)、張従信(ちょうじゅうしん)を蜀(しょく)の益州(成都)へ派遣して大蔵経の雕造(ちょうぞう)を命じ、『開元録』に基づいて作業が進められ、12年かかって完成した。その板木を用いて太平興国寺(たいへいこうこくじ)内の印経院で刷られたものが、有名な蜀版大蔵経(北宋勅版大蔵経)である。宋代にはほかに福州東禅寺等覚院大蔵経(祟寧万寿(そうねいまんじゅ)大蔵)、福州開元寺版大蔵経(毘盧(びる)蔵、福州版)、湖州円覚寺版大蔵経(思渓(しけい)蔵、宋版)、磧沙(せきしゃ)版大蔵経があり、また宋代に着手し元代に完成した普寧寺(ふねいじ)版大蔵経(元版白雲宗門蔵経)がある。さらに宋版を模刻した元版大蔵経や、明(みん)の太祖による南京(ナンキン)大報恩寺版大蔵経(南蔵)、清(しん)の太宗による北京(ペキン)勅版大蔵経(北蔵)があり、明の万暦(ばんれき)年間(1573~1619)につくられた万暦版大蔵経がある。
また中国以外でもたびたび開版がなされた。高麗(こうらい)では成宗(せいそう)(在位982~997)から顕宗(けんそう)(在位1010~30)の時代に蜀版を受け継いだ高麗(こうらい)版大蔵経がつくられた。高宗の時代に再雕(さいちょう)されたのが現存の海印寺版である。このほか、契丹(きったん)版、金(きん)版、西夏(せいか)版などもつくられた。このように多くの官版や私版による大蔵経の刊行は仏教の流伝に大きく貢献した。
日本では988年(永延2)に東大寺の奝然(ちょうねん)が宋から蜀版大蔵経を将来したのが大蔵経の初伝であろう。その後、高麗版や宋版、元版、明版が伝えられ、大蔵経開版も何度か企てられたが、完成をみなかった。最初に成功を収めたのは天台宗の天海(てんかい)による寛永寺(かんえいじ)版(天海(てんかい)版)である。その後、臨済(りんざい)宗の鉄眼道光(てつげんどうこう)によって明の万暦版を範とした黄檗(おうばく)版(鉄眼版)がつくられた。いずれも江戸時代である。明治になると、活版印刷の大蔵経がつくられた。縮刷蔵経、卍(まんじ)蔵経、卍続蔵経などがそれである。縮刷蔵経は高麗版に基づき、さらに中国・日本の典籍を増補して1916部8534巻とし、40帙(ちつ)418冊に収めた。卍蔵経は7082巻36套(とう)、卍続蔵経は7140余巻150套である。その後、大正から昭和の初頭にかけて刊行されたのが『大正蔵経』(『大正新修大蔵経』)で、本蔵1~85巻に収められた部数・巻数は3053部1万1970巻に上る。これに目録3巻、図像12巻を加え、全100巻の大叢書(そうしょ)とした。高麗版を底本とし、宋・元・明の各版を対校し、さらに天平(てんぴょう)写経、隋唐(ずいとう)の古写経、敦煌(とんこう)写本をも参照して学的な取捨を加え、質・量ともに充実を図った。現存するもっとも完備した大蔵経である。
なお、転用された意味での大蔵経(一切経)には『国訳一切経』『国訳大蔵経』『日本大蔵経』『昭和新纂(しんさん)国訳大蔵経』『南伝大蔵経』『西蔵(チベット)大蔵経』『蒙古(もうこ)蔵経』などがある。いずれも一定の方針に基づいて編纂された仏教聖典の叢書である。『日本大蔵経』は日本撰述の仏典を集成したもの、『南伝大蔵経』はパーリ語の仏典を日本語に訳したもの、『西蔵大蔵経』『蒙古蔵経』はそれぞれチベット語、モンゴル語による大蔵経である。
[岡部和雄]
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仏教聖典の総称で,『一切経』(いっさいきょう)『蔵経』『三蔵聖教』(さんぞうしょうぎょう)ともいう。漢訳された経(経典),律(戒律),論(論書)の三蔵に中国で著述された文献を加えて編纂された叢書に対する隋時代の呼称に由来する。高麗蔵海印寺(こうらいぞうかいいんじ)版(1236年),宋蔵(1239年),元蔵(1348年),明蔵(1420年)などがあり,日本では天海(てんかい)版(1624~44年),鉄眼(てつげん)版(1661~73年)が木版印行され,大正時代に『大正新脩(しんしゅう)大蔵経』100巻(1924年)が金属活字で出版された。漢訳以外の諸語の仏典コレクションにも「大蔵経」の呼称は適用され,パーリ語(タイ王室版ティピタカ,PTSローマ字版),チベット語訳(ナルタン版,デルゲ版,北京版,ラサ版ほか),モンゴル語訳,満洲語訳大蔵経の現存が知られている。
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一切(いっさい)経とも。仏教の聖典を網羅的に集成したもの。中国で成立した呼称で,漢訳された経・律・論に中国人僧の若干の著作を加えたものをいったが,のち諸国語のものもさした。中国では三蔵の漢訳の進行にしたがい仏典目録が作成され,唐代の「開元釈教録」によっていちおう完成した。宋代になると蜀版大蔵経として出版も開始され,以後朝鮮では高麗大蔵経,日本では寛永寺版・黄檗(おうばく)版が刊行された。
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…漢訳仏教経典の集大成である一切経を供養する法会。一切経は大蔵経ともいい,中国では6世紀初頭から集成されはじめ,10世紀には宋版一切経が印刷された。日本では673年(天武2)3月,初めて飛鳥川原寺で一切経を書写せしめたが(《日本書紀》),これを完成し供養したかどうかはあきらかでない。…
…〈五代〉につづく宋代(960‐1279)は中国における印刷術の黄金時代で,儒教経典をはじめ,あらゆる分野の書物が印刷された。972‐983年にわたって5048巻にのぼる《大蔵経》が四川省の成都で印刷された。印刷物自体も立派なもので,現存する宋版は芸術作品として珍重される。…
…金の歴代皇帝は仏教を尊崇して保護したが,遼が仏教保護のために国費をついやして財政難を招いた先例に懲り,国民が仏教におぼれることを深く戒めたので,造寺造塔も遼ほどに盛んではなかった。しかし,《大蔵経(だいぞうきよう)》の印行という大事業を成し遂げて,その後の仏教界に大きな貢献をしていたことが近年になって判明した。それは1934年,山西省趙城県の広勝寺で発見せられたが,山西省の一比丘尼の発願により,熙宗時代から世宗時代にかけて,約35年をついやして完成したものであることが知られる。…
…《法華経》《維摩(ゆいま)経》《華厳(けごん)経》などの重要経典は,それぞれの信仰から数十部も写すことがあり,ことに《阿弥陀(あみだ)経》《金剛般若(こんごうはんにや)経》《般若心経》のような比較的短編で,しかも信仰の中心になったものは100部ないし数千部も書写された。 とくに南北朝,隋・唐時代には,漢訳仏典の総集で数千巻もある《一切経》(《大蔵経》)を写して寺におさめ,また宮廷や貴族の邸宅に備えることがおこなわれるようになり,写経の専門家や写経事業運営の官制まで発達するにいたった。書写の年月日と写経者,装潢(そうこう)者,初校・再校・3校者,祥閲の僧数名,書経事業監督官まで巻末に列名している675年(上元2)の《金剛経》のごときは,唐朝写経制度を推察するのによい例である。…
… 崇宗・仁宗の時期はまた,仏教がもっとも栄えたときであり,政府は和尚功徳司,出家功徳司,求法功徳司といった役所を設けて仏教の隆盛を援助した。西夏は1100年までに少なくとも6回宋朝より大蔵経を下賜された。その西夏語への翻訳は,(1)3代恵宗と皇太后梁氏の訳本,(2)4代崇宗と皇太后梁氏の訳本,(3)5代仁宗の校訂本という3段階を経て行われ,(3)の時期には西夏大蔵経を作り出そうとの試みがあったとされている。…
…1924年から34年にかけて高楠順次郎(たかくすじゆんじろう),渡辺海旭(かいぎよく)らが東京大正一切経刊行会より刊行した大蔵経(仏教の経典類を集めた叢書)。とくに中国,日本で撰述された仏書を多数増補し,現在得られる大蔵経としては質量ともに最も優れている。…
…そのうち建安(福建省)の余,臨安(杭州)の陳の2書肆は,大出版社として著名であったことが葉徳輝《書林清話》などから知られる。 宋代の官版は,歴史,儒学,禅宗などの典籍の出版が多かったが,とくに大出版として有名なのは,2代皇帝太宗の勅版《大蔵経》5048巻(971‐983)である。使用した版木の数13万枚と伝えられる。…
※「大蔵経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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