日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
文久三年八月十八日の政変
ぶんきゅうさんねんはちがつじゅうはちにちのせいへん
1862年(文久2)以後長州藩および激派浪士からなる勢力は少壮公家(くげ)と結んで攘夷(じょうい)実行を幕府に迫り、翌年8月大和行幸(やまとぎょうこう)、攘夷親征の詔勅を発して討幕、王政復古を一挙に実現しようと計画した。しかし在京諸藩主に反対多く、会津(あいづ)・薩摩(さつま)両藩間で尊攘派排撃の密議がなされ、中川宮(青蓮院宮尊融法親王(しょうれんいんのみやそんゆうほうしんのう)。のちの久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう))、前関白近衛忠煕(このえただひろ)、右大臣二条斉敬(にじょうなりゆき)、京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)、所司代稲葉正邦(いなばまさくに)らは8月18日未明、会・薩両藩兵の警備する宮廷内において大和行幸の延期を決定。同時に長州藩の堺(さかい)町御門警衛の任を解き、三条実美(さんじょうさねとみ)ら二一卿(きょう)の参朝を禁止し、幕府信任・王政復古反対の意志を堅持する孝明(こうめい)天皇の承認を得た。このため三条らは長州藩兵、真木和泉(まきいずみ)ら激派浪士とともに長州に走り(七卿落(しちきょうおち))、この前後政局の中心となった京都はしばらくの間幕府側ないし公武合体派の握るところとなった。
[山口宗之]