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真木和泉 まき いずみ

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美術人名辞典の解説

真木和泉

幕末の志士。筑後国久留米水天宮祀官。名は保臣、号は紫灘、和泉は通称である。『大夢記』『義挙和文』などを著わし、京都で尊攘運動を展開するが、禁門の変に敗れた。元治元年(1864)歿、52才。

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デジタル大辞泉の解説

まき‐いずみ〔‐いづみ〕【真木和泉】

[1813~1864]幕末の尊攘派志士。筑後の人。本名、保臣(やすおみ)。水戸藩の藩政改革寺田屋事件七卿落ちなどに参加。長州兵とともに上洛し、蛤御門(はまぐりごもん)の変に敗れて自刃した。

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百科事典マイペディアの解説

真木和泉【まきいずみ】

幕末の志士。筑後(ちくご)久留米水天宮神官。名は保臣(やすおみ)。従5位下和泉守の官位を持ち,和泉と通称。水戸に遊学,会沢正志斎に師事。1862年脱藩上洛して尊王攘夷討幕運動に活躍したが,寺田屋事件に連座して一時幽閉。
→関連項目清川八郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

真木和泉 まき-いずみ

1813-1864 江戸時代後期の尊攘(そんじょう)運動家。
文化10年3月7日生まれ。真木旋臣(としおみ)の長男。筑後(ちくご)(福岡県)久留米の水天宮祠官(しかん)。江戸,水戸に遊学し,会沢正志斎の影響をうける。尊攘を説き,嘉永(かえい)5年久留米藩政改革をめざしたが失敗,幽閉の身となった(嘉永の獄)。文久2年脱藩し討幕に奔走するが,禁門の変に敗れ,元治(げんじ)元年7月21日天王山で自害。52歳。名は保臣(やすおみ)。字(あざな)は興公,定民。号は紫灘。変名に浜忠太郎。
【格言など】我一歩を退(さ)くれば彼一歩を進め,我一日優游すれば彼一日精熟す(「魁殿物語」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

真木和泉

没年:元治1.7.21(1864.8.22)
生年:文化10.3.7(1813.4.7)
幕末の尊王攘夷運動の指導的志士。諱は保臣,字は興公,定民。幼名は湊。久寿,鶴臣と称す。号は紫灘。従五位下,和泉守。浜忠太郎と変名。父は水天宮祀官真木旋臣,筑後国(福岡県)久留米で生まれる。文政6(1823)年,家督相続,久留米藩中小姓格,水天宮祀官。天保3(1832)年従五位下に叙され朝臣意識を持つ。尊攘を唱える後期水戸学に心酔,弘化1(1844)年,同学の大成者会沢安(正志斎)に面会,国元で水戸学(天保学)の影響下にある天保学連の中心となり改革を企てるが,保守派により嘉永5(1852)年の嘉永の獄で弟の家に幽閉される。開国の進展に応じて諸国の尊攘志士と交流し公家に建策,文久1(1861)年,『義挙三策』を著し王政復古を説く。翌年,脱藩して薩摩を経て上京しようとして寺田屋の変に遭遇,国元で謹慎,同3年1月,朝命により赦免。保守佐幕派の反撃により「和泉捕り」により同4月に拘禁,中山忠光,長州藩の圧力などにより5月に釈放,上京。6月,学習院御用掛。攘夷親征,大和行幸計画を中心的存在として推進。8月18日の政変により七卿に従って長州に落ちる。10月,『出師三策』を著して軍事力による朝廷奪回を主張,元治1(1864)年7月の禁門の変では浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加,7月19日,堺町御門を目指して進軍したが,福井藩兵などに阻まれて敗北,天王山に退却,長州へ落ち延びることを拒否し同21日,同志16名とともに自刃。辞世「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」。

(吉田昌彦)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

まきいずみ【真木和泉】

1813‐64(文化10‐元治1)
幕末の志士。久留米水天宮神官。名は保臣。従五位下和泉守の官位をもち通称和泉。1844年(弘化1)水戸に従学,会沢正志斎の教えをうける。52年(嘉永5)久留米藩の藩政改革を志し失敗,10年間蟄居(ちつきよ)。62年(文久2)脱藩,上京し討幕を企てたが寺田屋事件で失敗,再度久留米藩幽囚となる。翌年許され上京,討幕を決行せんとしたが,文久3年8月18日の政変で長州退去。翌年挙兵上京したが禁門の変に敗れ,天王山で自殺。

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大辞林 第三版の解説

まきいずみ【真木和泉】

1813~1864) 幕末の尊攘派の志士。久留米水天宮の祠官。名は保臣。通称、和泉守。七卿落ちの際、ともに長州藩に逃れる。蛤御門はまぐりごもんの変で敗れ、天王山で自殺した。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

真木和泉
まきいずみ

[生]文化10(1813).3. 久留米
[没]元治1(1864).7.21. 山崎
幕末の尊攘派浪士。本名は保臣。和泉守と称した。久留米の神官の家に生れ,天保 15 (1844) 年江戸に出て,会沢安,安井息軒らと交遊し水戸学の影響を受けた。京都で中山忠能に仕え,また久留米藩士として藩政改革に従事したが,嘉永5 (52) 年処分を受けた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

真木和泉
まきいずみ
(1813―1864)

幕末の尊攘派(そんじょうは)志士。久留米(くるめ)水天宮神官。名は保臣(やすおみ)、従(じゅ)五位下和泉守(いずみのかみ)と称す。1844年(弘化1)水戸(みと)遊学後、久留米藩内に尊攘派(天保(てんぽう)学連)を結成。1852年(嘉永5)藩政改革を企てたが失敗し蟄居(ちっきょ)。1862年(文久2)脱藩、鹿児島に走り、ついで上京直後、寺田屋の変に会い、ふたたび久留米藩幽閉となる。翌年許され上京、三条実美(さんじょうさねとみ)の信任を得、大和行幸(やまとぎょうこう)、討幕挙兵を画策したが、八月十八日の政変により七卿(しちきょう)を奉じ長州へ退去。1864年(元治1)長州藩兵とともに上京し幕府軍と戦ったが敗れ(蛤御門(はまぐりごもん)の変)、天王山で諸藩出身の浪士16人と自刃した。彼は毎年5月楠公祭(なんこうさい)を催し、蟄居当時から討幕、王政復古を主張した。[山口宗之]
『真木保臣先生顕彰会編『真木和泉守遺文』(1913・伯爵有馬家修史所) ▽宇高浩著『真木和泉守』(1934・菊竹金文堂) ▽山口宗之著『真木和泉』(1973・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の真木和泉の言及

【禁門の変】より

…これより前,尊王攘夷を主張する長州藩は,〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で,公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により京都から追われ,朝廷の九門の一つ,禁門警備の任を免じられ,藩主が処罰された。長州藩には,京都を脱走した七卿や真木和泉らの浪士も集結し,失地回復をめぐって進発論や持重論が渦巻いた。藩の指導者,周布政之助や高杉晋作らは,持重論により藩論をまとめていたが,翌64年3月になると,幕府と薩摩藩,会津藩,越前藩らの公武合体派は内部対立を起こし,有力大藩が帰国し,間隙が生じた。…

【久留米騒動】より

…1844年(弘化1)久留米藩10代藩主となった有馬頼永(よりとう)は,水戸学の影響をうけた村上守太郎ら天保学派の支持を得て藩政改革に着手,大倹令を発し軍制改革を断行したが,わずか2年にして急逝し,藩政改革は挫折した。46年,弟の頼咸(よりしげ)が11代藩主に就任すると,天保学派は真木和泉らの外同志と村上守太郎らの内同志に分裂し,50年(嘉永3)江戸赤羽の久留米藩邸における村上守太郎の参政馬淵貢に対する刃傷事件にまで発展した。翌51年村上一派・内同志は処分をうけたが,まもなく藩政中枢に復帰し,外同志と激しく対立,このとき和泉らは処分された。…

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