知恵蔵の解説
朝鮮戦争をきっかけに、北朝鮮から韓国へ避難してきた両親のもとに生まれた。家庭は貧しく、幼少期に釜山(プサン)へ移住し、1972年、ソウルの慶熙(キョンヒ)大学法学部へ入学した。大学では、朴槿恵前大統領の父親で当時の大統領、朴正熙(パク・チョンヒ、故人)政権に反対する民主化運動に参加し、75年には、運動に関わった容疑で投獄された。
兵役を経て1980年に慶熙大学を卒業、司法試験に合格して弁護士となる。その後、弁護士として活動していた後の第16代大統領、盧武鉉(ノ・ムヒョン)と出会い、82年、共同で法律事務所を開業した。
それからは弁護士として活動していたが、2002年、民主党の大統領候補となった盧の釜山地域の選挙対策本部長を務め、政治への関わりを深めていった。03年に発足した盧政権では、大統領秘書室長などの要職を歴任し、07年に盧と北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記との南北首脳会談を実現させた。
09年、不正資金の疑いをかけられた盧が自殺したことや、当時の李明博(イ・ミョンバク)政権に対して不満を抱いていたことから、大統領を志すようになり、11年、政治団体「革新と統合」の結成に参加し、共同常任代表に就任。翌12年4月の国会議員選挙で「民主統合党」(11年に民主党や革新と統合などが合流して結成)の候補として立候補し、初当選した。同年12月の大統領選に、民主統合党の大統領候補として出馬したが、朴前大統領に惜敗した。15年2月、「新政治民主連合」(民主統合党から改称した民主党と、新政治連合が14年に統合して発足)の代表に就任、党名を「共に民主党」に改称した直後の16年1月に代表を辞任した。
16年4月の国会議員選挙には出馬せず、他の候補への応援に回った。同年10月、ソウル市内で開かれた集会で次の大統領選に立候補する意向を表明、党の予備選を勝ち抜き、17年4月、党の大統領候補に選出された。
同年5月の大統領選では、政界と財界との癒着の清算や雇用創出、北朝鮮との融和、慰安婦問題での日本政府との再交渉などを訴え、国民の朴前大統領への反発を追い風に、幅広い世代からの支持を得て当選、9年ぶりの革新政権を実現した。
温厚でざっくばらんな性格で知られているが、政治姿勢には頑固な一面もあると評される。座右の銘は「厳しいときほど原則に戻れ」。妻との間に一男一女がいる。
(南 文枝 ライター/2017年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報