文在寅(読み)ムンジェイン

デジタル大辞泉 「文在寅」の意味・読み・例文・類語

ムン‐ジェイン【文在寅】

[1953~ ]韓国政治家。第19代大統領朝鮮戦争時に脱北した家族もとで育つ。学生運動などを経て、盧武鉉ノムヒョンとともに弁護士事務所を開業。盧が大統領となると民間から政権入りした。2012年に国会議員当選。朴槿恵パククネの罷免に伴う2017年大統領選に、左派系の「共に民主党」から出馬し当選した。ぶんざいいん。→尹錫悦

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文在寅」の意味・わかりやすい解説

文在寅
むんじぇいん
(1953― )

韓国の政治家。第19代大統領(任期2017~2022)。慶尚南道(けいしょうなんどう/キョンサンナムド)巨済島(きょさいとう/コジェド)生まれ。両親は朝鮮戦争(1950~1953)によって北朝鮮の興南(こうなん/フンナム)(現在の咸鏡南道(かんきょうなんどう/ハムギョンナムド)咸興(かんこう/ハムフン))から巨済島に脱出した避難民であった。1972年、慶熙(キョンヒ)大学法学部入学。1975年、朴正熙(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権に反対するデモを大学で行い逮捕。執行猶予判決後、軍隊に強制徴集された。1978年、除隊。1980年、民主化実現の機運が高まった「ソウルの春」により慶熙大学復学。同年、司法試験合格。合格の報は光州事件による非常戒厳令で予備検束されていた留置所の中で聞いた。1982年、弁護士になり、盧武鉉(ろぶげん/ノムヒョン)と法律事務所を構えて、全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)政権時代の民主化運動に参加した。

 2002年、盧武鉉が革新勢力側の候補として大統領選挙に出馬したときに釜山(プサン)地域選挙対策本部長を務め、2007年、盧武鉉の大統領秘書室長に就任。「盧武鉉の影法師」といわれ、同年の南北首脳会談のときには準備委員長として、朝鮮戦争に関係する国が終戦宣言をして、恒久的平和体制をつくることを目ざした。2009年、盧武鉉が不正献金疑惑によって自死すると、盧武鉉を追悼する盧武鉉財団理事、翌2010年に理事長に就任した。

 2009年、金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)から政界進出を勧められ、政権交代をゆだねられた。2012年の国会議員総選挙に革新系の民主党から出馬し、当選。ついで同年の大統領選挙に立候補した。選挙では保守系の朴槿恵(パククネ)に敗れたが、投票者のうち20代から40代の年齢層では文在寅の支持率のほうが高かった。

 その後、野党議員として活動したが、2016年には大統領の朴槿恵退陣要求を掲げた「ろうそくデモ」に参加し、2017年5月、朴槿恵失職による大統領選挙に「共に民主党」から出馬して当選した。2位の保守系候補の洪準杓(ホンジュンピョ)(1954― )との票差は、それまでの韓国大統領選挙史上最大であった。

 2017年5月、大統領に就任。「ろうそくデモ」を背景にした政権の優先課題は積弊清算、南北対話、経済、雇用、民生であった。

 文在寅のいう積弊清算とは親日保守勢力を一掃して、あるべき「正義」を回復することで、歴史清算の一環として光州事件の精神を継承し、済州島四・三事件(済州島事件)の解決を図った。朴槿恵政権の政策の多くが撤回、見直され、日韓合意で創設された慰安婦財団を解散させ、朴槿恵政権時代に司法介入が行われた徴用工問題についても、裁判の結果を尊重するとして積極的な解決を図ろうとしなかった。このため日韓関係は大幅に悪化した。また、検察改革を行い、2021年に高位公職者犯罪捜査処を設置した。

 南北対話は2018年、冬季オリンピック平昌(ピョンチャン)大会をきっかけに南北関係が改善したことを背景に、3回にわたり南北首脳会談を行い、1回目の会談では核なき朝鮮半島の実現を目ざした「板門店(はんもんてん/パンムンチョム)宣言」を出した。さらに、米朝首脳会談を仲介した。また、南北経済協力を推進しようとした。

 経済面では、財閥主導の成長重視の経済戦略よりも、賃金引上げと所得の上昇による消費拡大を重視して、最低賃金の大幅引上げや労働時間の短縮を図った。エネルギー分野では石炭火力発電所削減、脱原発政策をとった。

[武井 一 2022年8月18日]

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知恵蔵 「文在寅」の解説

文在寅

韓国の第19代大統領。進歩(革新)系の最大野党「共に民主党」に属する。1953年1月24日、韓国南東部の慶尚南道(キョンサンナムド)巨済(コジェ)生まれ。朴槿恵(パク・クネ)前大統領の罷免に伴い行われた2017年5月9日の大統領選挙で当選し、翌5月10日に就任した。
朝鮮戦争をきっかけに、北朝鮮から韓国へ避難してきた両親のもとに生まれた。家庭は貧しく、幼少期に釜山(プサン)へ移住し、1972年、ソウルの慶熙(キョンヒ)大学法学部へ入学した。大学では、朴槿恵前大統領の父親で当時の大統領、朴正熙(パク・チョンヒ、故人)政権に反対する民主化運動に参加し、75年には、運動に関わった容疑で投獄された。
兵役を経て1980年に慶熙大学を卒業、司法試験に合格して弁護士となる。その後、弁護士として活動していた後の第16代大統領、盧武鉉(ノ・ムヒョン)と出会い、82年、共同で法律事務所を開業した。
それからは弁護士として活動していたが、2002年、民主党の大統領候補となった盧の釜山地域の選挙対策本部長を務め、政治への関わりを深めていった。03年に発足した盧政権では、大統領秘書室長などの要職を歴任し、07年に盧と北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記との南北首脳会談を実現させた。
09年、不正資金の疑いをかけられた盧が自殺したことや、当時の李明博(イ・ミョンバク)政権に対して不満を抱いていたことから、大統領を志すようになり、11年、政治団体「革新と統合」の結成に参加し、共同常任代表に就任。翌12年4月の国会議員選挙で「民主統合党」(11年に民主党や革新と統合などが合流して結成)の候補として立候補し、初当選した。同年12月の大統領選に、民主統合党の大統領候補として出馬したが、朴前大統領に惜敗した。15年2月、「新政治民主連合」(民主統合党から改称した民主党と、新政治連合が14年に統合して発足)の代表に就任、党名を「共に民主党」に改称した直後の16年1月に代表を辞任した。
16年4月の国会議員選挙には出馬せず、他の候補への応援に回った。同年10月、ソウル市内で開かれた集会で次の大統領選に立候補する意向を表明、党の予備選を勝ち抜き、17年4月、党の大統領候補に選出された。
同年5月の大統領選では、政界と財界との癒着の清算や雇用創出、北朝鮮との融和、慰安婦問題での日本政府との再交渉などを訴え、国民の朴前大統領への反発を追い風に、幅広い世代からの支持を得て当選、9年ぶりの革新政権を実現した。
温厚でざっくばらんな性格で知られているが、政治姿勢には頑固な一面もあると評される。座右の銘は「厳しいときほど原則に戻れ」。妻との間に一男一女がいる。

(南 文枝  ライター/2017年)

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