朴槿恵(読み)パククネ

デジタル大辞泉 「朴槿恵」の意味・読み・例文・類語

パク‐クネ【朴槿恵】

[1952~ ]韓国の政治家。第18代大統領朴正煕長女両親の暗殺後、学校理事長などを経て、1998年にハンナラ党から国会議員当選後継セヌリ党から2012年の大統領選に出馬して勝利した。翌年、女性初の大統領に就任したが、友人女性を国政に介入させたとして2016年に国会弾劾決議を受けて職務停止。2017年3月、憲法裁判所罷免決定で失職。同月、収賄容疑などで逮捕された。ぼくきんけい。→ムンジェイン

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百科事典マイペディア 「朴槿恵」の意味・わかりやすい解説

朴槿恵【ぼくきんけい】

韓国の政治家。大韓民国第18代大統領(2012年2月就任)。大邱に生まれる。朴正煕元大統領の長女。1974年西江大学校電子工学科卒業。1974年母の陸英修が暗殺されたため,朴正煕大統領が暗殺された1979年まで,ファーストレディ役を務めた。1998年国会議員初当選。2004年から2006年ハンナラ党代表。2007年,同党大統領候補予備選では李明博に敗れた。その後,ハンナラ党は朴槿恵を支持する親朴派と李明博支持の親李派の確執が表面化し,親朴派議員が集団離党するなど党内抗争が続き,さらに李明博大統領の支持率が任期後半に入って低迷。2011年のソウル市長選挙では野党統一候補に大差で敗れたうえ,同選挙で中央選挙管理委員会のホームページがハッカー攻撃でダウンした事件がハンナラ党議員の指示によるものであることが判明,党指導部が辞任に追い込まれるという事態に陥った。朴槿恵はハンナラ党全国委員会で非常対策委員会委員長に選出され,事実上の党代表に復帰,党改革に着手するとともに,党名を公募する方針を打ち出し,ハンナラ党からセヌリ党に党名変更した。2012年9月,大統領選を前に,父の朴正煕元大統領の軍事政権時代に弾圧され苦痛を受けた被害者に謝罪した。2012年12月の大統領選挙で野党民主統合党の文在寅候補と接戦を展開したが勝利した。2013年2月大統領就任後,外交関連の主な国政課題として,〈韓米同盟の持続的発展及び関係国との国際協力強化〉,〈北東アジア平和協力構想とユーラシア協力拡大〉,〈韓米同盟と韓中パートナーシップの調和発展及び日韓関係の安定化〉を発表。初の外遊先として2013年5月に米国を訪問し,安全保障上の韓米同盟の重要性を確認するとともに,安保のみならず経済を含めた全般的な関係に発展させていくことを確認。また,北朝鮮問題については,北朝鮮が国際社会の義務を遵守し,朝鮮問題の平和と繁栄を促進するために協力していくことに合意。さらに,韓米FTAについては,貿易・投資共に増加していると評価した。さらに朴槿恵大統領は対中関係の強化にも努め,就任後2番目の訪問先として日本ではなく2013年6月に中国を国賓訪問し,戦略的協力パートナーシップ関係を強化していくことで合意。北朝鮮問題について6者協議再開のための環境を確保できるよう努力することで一致。南北問題については,確実な抑止力を土台に安易な妥協を排した強硬姿勢をとりつつ,南北の間に信頼を積み上げていくこと〈朝鮮半島信頼プロセス〉を表明。対日政策では,従軍慰安婦問題を焦点に歴史認識問題で安倍政権を厳しく批判し,韓日関係は完全に冷え込んでいる。こうした一連の外交姿勢が世論に高く評価され,朴槿恵政権は高支持率を維持した。しかし2014年4月旅客船フェリー・セウォル号(清海鎮海運会社)が珍島沖海上で転覆・沈没する事故が発生,修学旅行中の高校生325名が乗船しており,多数の高校生を含む300名以上の死者・行方不明者を出す大惨事となった。事故直後から政府の対応に批判が噴出,鄭原首相は辞任を表明した。この事故に加え,さらに所得税の新制度導入で冷え込んだままの内需,公務の年金改革,財閥の不祥事,若年層失業率の増加等々も重なり,朴槿恵大統領の支持率は落ち込んでいる。2015年の日韓国交正常化50周年を迎え,冷却した日韓関係の改善に向け踏み出すか否かが注目されている。→セウォル号沈没事件
→関連項目河野談話

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朴槿恵」の意味・わかりやすい解説

朴槿恵
ぱくくね
(1952― )

韓国の政治家。第18代大統領。旧セヌリ党代表。韓国初の女性大統領で、弾劾罷免された初の大統領。父親は第5~9代大統領朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)。

 1952年慶尚北道(けいしょうほくどう/キョンサンプクト)大邱(テグ)生まれ。韓国陸軍大佐の朴正煕と、陸英修(ユクヨンス)(1925―1974)の間に生まれる。1963年、朴正煕の第5代大統領就任後は大統領公邸であった青瓦台(せいがだい/チョンワデ)で生活する。1970年、西江(ソガン)大学校電子工学科に入学。1974年文世光(ぶんせいこう/ムンセグァン)事件で母親が殺害されると、留学先のフランスから帰国し、1979年に朴正煕が殺害されるまで、ファーストレディー役を務めた。父の死後は、陸英(ユギョン)財団理事長、嶺南(ヨンナム)大学校理事長などを務めた。

 1997年、保守系政党のハンナラ党に入党。2004年から2006年までハンナラ党党首を務める。2007年、ハンナラ党の次期大統領選候補として李明博(りめいはく/イミョンバク)と候補を争ったが敗退。2011年、ソウル市長選挙による党内運営の混迷をきっかけとして、事実上の党代表にあたる非常対策委員会委員長となり、ハンナラ党をセヌリ党と改称。2012年2月の総選挙でセヌリ党を単独過半数の第一党へ導き、大統領候補としての道を開いた。

 2012年8月、李明博の政策との違いを強調してセヌリ党の次期大統領選候補に選出された。その政策目標は、経済民主化、韓国型福祉、雇用創出などであった。同2012年12月に行われた大統領選挙は左派の民主統合党の文在寅(ムンジェイン)(1953― )との事実上の一騎打ちであったが、得票率51.6%の僅差(きんさ)で勝利。2013年2月、第18代大統領に就任した。

 政権の目標は「希望の新時代を開く」ことで、それは、国民各自の夢がかなえられ、各自が人生の主人公になりうる国家をつくるということであった。経済復興、国民幸福、文化隆盛という選挙の公約どおりの政策の柱は、父、朴正煕大統領時代以来1996年ごろまで続いた経済発展である「漢江(かんこう/ハンガン)の奇跡」になぞらえた「第二の漢江の奇跡」を起こすことであった。北朝鮮に対しては非核化を、日本に対しては歴史認識の是正を求め、とくに竹島問題や、従軍慰安婦問題では強硬な姿勢を貫いていたが、慰安婦問題については2015年12月、外務大臣・岸田文雄と韓国外交部長官・尹炳世(ユンビョンセ)(1953― )による外相会談によって「最終的かつ不可逆的な解決」を確認して合意した。

 国民の期待に反して、政策は与党の内紛や野党の反発などで遅々として進まなかった。2016年の総選挙では与党が大敗した。そのうえ、10月に朴槿恵の友人の崔順実(チェスンシル)(1956― )による国政壟断(ろうだん)事件(大統領を利用して国政を独占しようとした事件)で支持率は急減した。12月、国会は大統領弾劾訴追案を可決し、2017年3月、憲法裁判所はそれを妥当と判断して朴槿恵を罷免した。これによって韓国の憲政史上初の罷免された大統領となった。同月、朴槿恵は尹錫悦(ユンソンニョル)(1960― )が率いる検察によって職権濫用と、大手財閥に対して崔順実が運営する財団に寄付をするよう強要した疑いで逮捕された。2021年、懲役22年の実刑判決が確定したが、同年12月、特赦で釈放された。

[武井 一 2022年8月18日]

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