日本大百科全書(ニッポニカ) 「文阿弥」の意味・わかりやすい解説
文阿弥
もんあみ
室町時代の「たてはな」(初期のいけ花)の名手。文阿弥と名のる人物は2名ないし3名いたと推測される。初代文阿弥は同朋衆(どうぼうしゅう)として足利(あしかが)将軍に仕え、その技術について禅僧の景徐周麟(けいじょしゅうりん)が記した「綉谷庵文阿弥肖像賛(とうこくあんもんあみしょうぞうさん)」(『翰林胡蘆集(かんりんころしゅう)』第11巻)がある。それによると喜びの席といい悲しみの場所といい、それぞれの雰囲気に応じた花が立てられ、王侯貴戚(きせき)といった身分の高い人たちが愛重してやまなかったとある。文阿弥は山科言国(やましなときくに)の雑掌(ざっしょう)でたてはなに優れた大沢久守(ひさもり)とも交流をもち、斯波(しば)家の花会で久守とも、たてはなしていることが『山科家礼記(やましなけらいき)』にみられる。たてはなを通して親交のあった公家(くげ)の鷲尾隆康(わしおたかやす)がその日記『二水記(にすいき)』に文阿弥の1517年(永正14)11月11日の死亡を記しており、したがって同日記の1526年(大永6)以後に現れる文阿弥は2世とみなされる。文阿弥の筆による『文阿弥花伝書』は阿弥系のいけ花を伝える貴重な伝書といえる。
[北條明直]