いけ花(読み)いけばな

日本大百科全書(ニッポニカ) 「いけ花」の意味・わかりやすい解説

いけ花
いけばな

日本独自の伝統的な挿花(そうか)の技法。いけ花は時代の変遷に応じていろいろな様式を生じ、それがその時代のいけ花の名称となっている場合が多い。いけ花の初期は「たてはな」といい、それが江戸初期に様式を完成させて「立花(りっか)」の形式を生むと、立花が当時のいけ花の名称となった。また茶の湯の流行により茶室の花が生まれると、単に「花(はな)」とよび、「お花」などという呼び名もここからおこった。江戸時代に「抛入花(なげいればな)」が愛好され、やがて「生花(いけばな)」を生むようになる。生花は、江戸中期ごろからおこった天地人三才格の花型(はながた)をもついけ花様式の一つだが、その広範な普及によって、いけ花がいつか一般的な名称のように用いられ、今日に至っている。江戸時代には「瓶花」「挿花」「活花」などの字をあてて「いけばな」とよぶ場合も多く、また別に「花道(かどう)」といった呼び名もおこるようになった。明治以後「盛り花」「投入れ」様式が新しく生まれると、それとの区別の必要からも、生花を「せいか」「しょうか」とよんでいけ花様式の一つとし、いけ花が一般総称として用いられるようになった。いけ花の近代化に伴い、盛り花、投入れから「自由花」「現代花」が派生し、第二次世界大戦後には「前衛いけ花」が生まれるなど、いけ花は多様な様式の歴史を展開している。いけ花は、その形式の成立は、室町時代の座敷飾りの室礼(しつらい)から発展したものだが、これが確立する前提としては、日本人の花に対する感覚の系譜というべきものをたどる必要がある。

[北條明直]

いけ花の歴史

いけ花以前

祭りにはかならず木を立てるということが、日本の民俗信仰に一貫して流れている特徴である。神霊が樹木に天降(あもり)すると考えたからだ。樹木は神の依代(よりしろ)である。樹齢を重ね大空にそびえ立つ大木などは、そのままで神霊のよりつくかっこうな神の依代と考えられた。そこに社(やしろ)、すなわち神社ができた。また神への祈願として、マツやスギやサカキなど色の変わらない常磐木(ときわぎ)を選び、これを地上に直立させることによって、そこへ神を迎え入れ、その年、その土地、その家の安全と幸せを祈った。

 いけ花は花よりも枝を立てることのほうに基本的骨格があるが、それは民俗信仰の依代の習俗を投影しているといっていい。一方、咲く花は、死霊をよみがえらせる具として考えられた。『日本書紀』にみえる伊弉冉尊(いざなみのみこと)の死霊供養の祭祀(さいし)に、花の盛りには花を供える土俗があったというのは、霊のよみがえりを図る呪術(じゅじゅつ)的儀式にほかならず、そこには花を活霊(かつれい)としてみる民俗があったことを物語る。そして、花は咲くがゆえに散り、散るがゆえに咲くという死滅と再生の象徴として民俗のなかでとらえられ、そこに花の生命に対する強い関心が注がれた。花見が本来、ムラのその年における農作物の吉凶を判断する予祝行事だったことも、また苗代(なわしろ)の水口(みなくち)に花を挿して田の神を祭る行事のあることも、花の活霊に対する神秘畏敬(いけい)の念の表れであり、こうした感覚が花の生命を凝視する日本人の心を培い、やがて1回限りの花の生命をひときわ高揚させようとするいけ花を生む精神的土壌となっている。

 しかし、呪術や信仰のうえでの植物の扱いは、依代の樹木であろうと、供える花であろうと、自然の状態のままの花や枝を切ったり採ったりするにとどまり、そこに人工的改変を加えられることはないが、花を好みの場に移して生かし育てることについては、古代貴族の屋敷内に花園をつくることでまず現れた。いわゆる庭の前栽(せんざい)として植え込みをつくり、そうした前栽の花を前に、貴人の邸宅で酒宴を張り歌を詠むことが盛んに行われ、それはやがて瓶に花を切って挿すという鑑賞へと移行する。『枕草子(まくらのそうし)』には、「勾欄(こうらん)のもとに青きかめの大いなる据ゑて、桜のいみじくもおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いとおほくさしたれば」とある。一方、仏教信仰が上流貴族に受け入れられてきたのと並行して、仏前の供花(くげ)を瓶子(へいし)や壺(つぼ)や皿などに挿して献ずる風が一般化し、また寺僧の勤めとしてシキミやハスの花などを挿し供える仏前供養の献供の作法も入り、日本人と植物とのかかわり方は、日本人本来の民俗信仰行事を受けつつも仏教的な潤色が加えられ、屋外から屋内の花へ、さらには美しく加工が施されるといった過程をたどるのである。

 積極的に美しい花をつくりだそうとする傾向を促したものに、歌合(うたあわせ)から派生したともいえる貝合(かいあわせ)、草合(くさあわせ)などの物合(ものあわせ)の一類としての花合(はなあわせ)があった。当時中国宋(そう)代の花卉(かき)園芸の影響もあって、園芸が平安時代の公家(くげ)生活のたしなみ事とされ、品種の多様化とともに葉を摘んだり枝を整えたりというくふうによって、草木花の形姿を美しくつくることがなされたが、物合の花も優劣を競う遊びのなかで、おもしろさ、珍しさへの趣向が凝らされた。こうした趣味性をもった花への指向が、民俗信仰や仏教のもつ宗教性から花を解放し、いけ花の誕生を促すことになる。

 南北朝から室町時代にかけては、政治的意味合いを込めて、平素の共同性を確認する機会としての寄合(よりあい)がしきりに催された。それは酒宴その他の遊興を名目とするもので、公家、武家、僧侶(そうりょ)間で盛んに行われたが、こうした寄合の流行のなかで花合という催しも流行した。とくに七夕(たなばた)に際して多く、『迎陽記(こうようき)』によると、1399年(応永6)の七夕に、北山の足利義満(あしかがよしみつ)邸に青蓮院宮尊道(しょうれんいんのみやたかみち)親王や聖護院道基(しょうごいんみちもと)以下多くが集合、7種の花の瓶に挿したものを競べ合わせ、賞品に小袖(こそで)を贈ったとある。また後崇光(ごすこう)院の『看聞御記(かんもんぎょき)』には、1416年(応永23)から1443年(嘉吉3)にわたって毎年七夕法楽(ほうらく)の記事がみえる。その座敷飾りの室礼にはかなりの技巧を凝らしたことが記されている。それは常(つね)の御所を会所として座敷を飾り、日ごろ出入りの廷臣や僧俗が種々の花器に入れて献上した花を置き並べ、そこで乞巧奠(きこうでん)にふさわしく和歌の会を催し音楽を奏するものであった。こうした七夕の花献上の習俗は、有力な公家や将軍家、守護大名の間にも広まり、また献上者間に競争意識が働き、珍しい花器を求め、花の形も考えるというくふうが凝らされ、かつその技法に長じた専門家も出現するようになった。

[北條明直]

いけ花の誕生

こうした風潮のなかで、挿花の風が室内装飾としてさらに重きをなすに至ったのは、床の間の発生である。日本に床の間が発生するのはおよそ15世紀ごろと推定される。南北朝から室町時代にかけて中国絵画がおびただしく流入し、これが珍重され、これらの絵画のほとんどが軸物であったところから、これを掛けて鑑賞する施設として床は発生した。15世紀の終わりごろの『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』は、室町時代の唐絵(からえ)や唐物(からもの)、器物の鑑賞と座敷飾り方式を述べた秘伝書だが、これによると、正式な床の飾り方式として三具足(みつぐそく)を掛軸の前に置くことになっている。すなわち、三幅一対、五幅一対の掛軸の前に卓を置き、その上に向かって右に燭台(しょくだい)、中央に香炉や香合、左に花瓶を置くのが定式となっていた。この方式は仏前荘厳(しょうごん)の飾り方式を踏襲したもので、そこに床の間のもつ儀式的機能をみることができるが、一方、床の間は美術鑑賞の機能もあわせもつところから、略式になるほど娯楽鑑賞の側面が強調され、そこではいけ花が鑑賞の花として重きをなすようになる。

 床飾りの方式が整備されるようになるのは足利義政(よしまさ)の時代からで、これらの規定(きじょう)に参与したのは、多く半僧半俗の同朋衆(どうぼうしゅう)とよばれる義政の側近衆であった。彼らはいずれも阿弥(あみ)を号し、そのなかには絵画の能阿弥、芸阿弥、相阿弥、飾り付けの立阿弥(りゅうあみ)などがいた。立阿弥は義政の命でしばしば花を立てているが、書院の座敷飾りの方式が整うと、文阿弥(もんあみ)のように花を立てることを専門にする名人も現れ、「たてはな」とよばれた後の立花様式の前身ともいうべき花型が生まれるようになる。このころの花の堪能な人は阿弥系以外にも、山科言国(やましなときくに)の雑掌(ざっしょう)大沢久守のような公家所属の人もいる。彼は1488年(長享2)正月から1492年(明応1)12月までに小御所(こごしょ)、御学問所、黒戸御所に花を立て、その数123瓶に及んだという。

 また京都六角堂頂法寺(ちょうほうじ)の池坊(いけのぼう)の寺僧のなかからも名手が輩出し、なかでも専慶はその技(わざ)が巧みで、将軍家以外の武家の邸宅で、主人の求めに応じて花を立てて賞賛を浴びた。専慶は、今日の池坊の開祖をなしている。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)以後、足利幕府の衰亡とともに同朋衆の花が影を潜めたのに対し、頂法寺は札所(ふだしょ)として諸人の参詣(さんけい)が絶えず、庶民に親しまれたところから、池坊の花はますます発展し、同朋衆の一派をも吸収し、16世紀中ごろには、いけ花は完全に池坊の独占するところとなった。しかも専慶以後もいけ花名手が相次ぎ、代々くふうを重ねた結果、武家社会だけでなく貴族社会にも進出し、1530年(享禄3)には宮中で花を立てるまでに至っている。

 このころから口伝書の類が多く残されるようになる。享禄(きょうろく)2年(1529)の奥書のある『宗清花伝書(そうせいかでんしょ)』、1445年(文安2)から1536年(天文5)にかけ相伝されたという『仙伝抄(せんでんしょう)』、天文11年(1542)の奥書のある『池坊専応口伝(せんのうくでん)』(『専応花伝書』)、天文21年(1552)の奥書のある『宣阿弥花伝書』、同じく天文21年相伝という『花伝書ぬきかき条々』などで、なかでも『仙伝抄』と『池坊専応口伝』が知られている。『仙伝抄』の条々のなかにうかがえるのは、多分に呪術めいた働きを「たてはな」に与えていることである。信仰と密接な関係をもちつつ、座敷飾りとして東山時代の武家社会のなかに機能していったいけ花は、『池坊専応口伝』となると、その序文にいけ花の哲理が述べられ、いけ花は花の美を賞するだけでなく、自然の本然の姿を現し宇宙の理(ことわり)を示すものだという形而上(けいじじょう)的意義を付して、以後のいけ花の発展方向に大きな示唆を与えている。こうして天文(てんぶん)年間(1532~1555)に数多い口伝書を成立させた「たてはな」は、安土(あづち)桃山時代を経て寛永(かんえい)(1624~1644)に至り、立花様式を大成させるのである。

[北條明直]

立花の大成

16世紀後半の安土桃山時代になると、城、邸宅などの建造物の規模がしだいに雄大となり、床の間の床も間口2間から3間以上のものとなり、いけ花もそれに見合う豪華なものに発展していった。1594年(文禄3)、豊臣(とよとみ)秀吉が前田利家(としいえ)の邸に赴いたときの大広間の上段の飾りは、4間の床に、横6尺、縦3尺の大きな花器によるいけ花が池坊によっていけられたという記録が残され、また1590年(天正18)に毛利(もうり)邸を訪れたときは、やはり池坊が色彩華やかなケイトウを花材に用い、はで好みの時代の風潮を反映し、さらに1595年(文禄4)曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)は、秀吉に、ルソンから持ってきた長さ6尺7寸、幅4尺、重さ100斤(きん)という大鉢に満開のサクラをいけてみせたという記録が残されている。このように当時のいけ花は草花の種類も多く、枝の配置も技巧的で、色彩豊かな豪華さを誇り、あたかも当時の雄大華麗な障壁画(しょうへきが)に対応するかのようであった。

 こうした桃山時代の豪華な花は、徳川時代に入って上流社会から、さらにようやく台頭しつつあった町人階級にも及ぶようになり、立花様式を完成させるのだが、その中心的な活躍を示すのが2代池坊専好(せんこう)である。このころの文化の中心はまだ依然として京都にあり、立花もまた京都を中心として展開した。とくに後水尾(ごみずのお)天皇は立花を好み、1629年(寛永6)の閏(うるう)2月から秋まで、宮中の紫宸殿(ししんでん)で数次にわたって立花の会を催し、才ある者は無位無冠の者でも出品を許され盛会を極めたという。こうした宮中立花の指導や批評の任にあたったのが2代専好にほかならない。専好については、『槐記(かいき)』では「立花の中興」とし、『遠碧軒記(えんぺきけんき)』では「家風を改む」とある。いずれにしても立花は専好によって大きく芸風を発展させたわけだが、その特色は、立花を単なる座敷飾りとせず、一瓶一瓶が独立した芸術作品として、鑑賞に堪える花の世界を構成したところにある。専好が1629年(寛永6)2月5日、宮中の立花会で立てた「二株砂之物(ふたかぶすなのもの)」は、東京国立博物館蔵の『立花図屏風(びょうぶ)』に描かれているが、『土御門泰重卿記(つちみかどやすしげきょうき)』にもみられるとおり、あまりにできばえがすばらしかったので、後水尾天皇から見にくるように招請があったほど、当時評判の作品だった。全体の与える印象は大きくのびやかで、しかも細部にバランスをよくとって均衡の美を発揮しているが、同時にこの真(しん)のマツの湾曲した姿に象徴される自然形象は、そのまま松籟(しょうらい)の響きを聞く感を覚えさせる。すなわち、湾曲したマツの形態と生態とがみごとに一瓶に顕現され、あとの枝や草花がこれに豊かな構成美と繊細なリリシズムを与えている。もはや専好にあっては、立花は合理的な構成美の所産であると同時に、自然を象徴的にうたいあげる立花芸術であった。

 寛永(かんえい)を過ぎ元禄(げんろく)(1688~1704)に至ると、池坊立花は最隆盛期を迎える。専好の跡を受けた門人のなかに、大住院以信(だいじゅういんいしん)、高田安立坊周玉(たかだあんりゅうぼうしゅうぎょく)、雲泰(うんたい)、十一屋太右衛門(じゅういちやたうえもん)、富春軒仙渓(ふしゅんけんせんけい)といった傑出した人々が現れたが、同時に、専好立花に傾倒するあまり、真、正真(しょうしん)、請(うけ)、流(ながし)、控(ひかえ)、前置(まえおき)、見越(みこし)の七つの役枝(やくえだ)が固定し、この型を順守しなければ立花でないとされ定型化していったので、創成期や発展期の創造性を失い、しだいに時代から取り残されていった。

 このころ木版印刷の技術が発達し、立花の伝書や図版が多く出版された。なかでも1673年(延宝1)出版の『六角堂池坊並門弟立花砂之物図(ろっかくどういけのぼうならびにもんていりっかすなのものず)』、専好の立花様式をもとに理論的に集大成した1683年(天和3)刊行の『立花大全(りっかだいぜん)』、1688年(元禄1)刊行の富春軒仙渓の著『立花時勢粧(いまようすがた)』が優れている。『六角堂池坊並門弟立花砂之物図』では、21人の図版中12人を町人出身者で占め、町人の立花への進出を物語り、また1684年(貞享1)出版の『立花正道集(しょうどうしゅう)』には、立花が上は貴族、下はあばら屋に住む人々に至るまでたしなまれているとあるところからも、立花の庶民的浸透をうかがわせるものがあるが、町人の立花は多分に享楽的な見栄(みえ)に支えられた面が強く、大きくて手間のかかる立花の大衆性にはおのずから限界があった。

[北條明直]

抛入花から生花へ

さかのぼって、安土桃山時代から盛んとなった茶の湯の流行は、草庵(そうあん)茶室のわび茶を創始するに至って、簡素な茶席の花を生み、書院の豪華な床の花としての立花に対極するものとして発展していった。茶席の花は本来は『仙伝抄』などに述べられる「なげいれ」のことで、「たてる」に対して「いける」ということばが用いられ、前者が形式を重んずるのに対し、形式にとらわれない自然の姿のままにいけた花をいった。「なげいれ」とよぶのは、投げるように入れる意味ではなく、曲がって入れてもかまわないという自由性を意味し、草木花の自然のありのままの姿を一瓶に生かす意味で、いけるはな、すなわち「いけはな」ともよばれるものであった。『南方録(なんぽうろく)』に、「花の事座敷のよき程にかろかろとあるべし」とあるように、茶室のいけ花は座敷にあわせ軽々といけることの自由性が強調された。また同書に「小座敷の花は、必ず一色を一枝か二枝軽くいけたるがよし。勿論(もちろん)、花によりて、ふはふはといけたるもよけれど、本意は景気をのみ好む心いやなり」と述べているとおり、目だたない美しさを発揮することが望まれた。こうした茶室の花、すなわち「なげいれ花」は、江戸初期茶の湯の盛行に伴い普及をみるが、元禄あたりから、形式化した立花にかわって自由な花が求められるようになると、茶の湯のなげいれ花(茶花)が、茶の湯から離れて自立し、抛入花(なげいればな)として広く江戸の町人階層にもてはやされるようになった。

 1684年(貞享1)『抛入花伝書』が刊行され、抛入花という名称が初めて用いられている。この書は著者が立花師で、「なげいれは立花をやつしたるもの」として述べているが、立花盛行の一方で、茶の湯のなげいれから独立した抛入花が、日常的な町人たちの生活空間のなかに浸透しつつあった状況を端的に物語っている。さらに1750年(寛延3)に至って『題本朝瓶史(だいほんちょうへいし) 抛入岸の波』が刊行される。浪花隠士(なにわのいんし)、釣雪野叟(ちょうせつやそう)によるこの著は、中国明(みん)代の文人、袁宏道(えんこうどう)の『瓶史(へいし)』や張謙徳(ちょうけんとく)の『瓶花譜(へいかふ)』を引用しながら、『抛入花伝書』とまっこうから対立し、「立花も此(この)抛入より出たるものなり」と説き、立花批判にまで及ぶのである。しかし1773年(安永2)の『生花枝折抄(いけばなしおりしょう)』に、「生花は方式なくては床粧(とこかざり)とはなりがたし、抛入花は即興の翫物(がんぶつ)なり」とあるように、抛入花の簡素な自由性を取り込みながらも、これを立花のような格調ある形式美のいけ花とすべく、そこに生花様式が誕生するのである。

 1757年(宝暦7)、赤穂(あこう)の人千葉竜卜(ちばりゅうぼく)は源氏流を創始し、大坂から江戸に移って浅草で花展を催し、生花の流派創生の端緒を開くのである。このほか今井一志軒宗普(いっしけんそうふ)の古流、是心軒一露(ぜしんけんいちろ)の松月堂古流、春秋軒一葉(しゅんじゅうけんいちよう)の遠州流、千葉一流(ちばいちりゅう)の東山(とうざん)流と次々に生花諸流が創始された。生花以前には諸流なく、池坊が立花をもっていけ花界を独占してきたのであるが、江戸生花諸流がおこり、広く一般に流行するに及んで、池坊も生花を認めざるをえなくなり、文化年間(1804~1818)に至ってついに生花を採用したが、生花はあくまで立花から派生した小品花であるとし、「生花(しょうか)」とよんで他流と区別した。その様式は諸流と同じである。また生花は多くの流派を生んだところから流儀花ともよばれている。

 生花は立花よりも簡略で、天、地、人という一定形式を踏むことによって、だれにも容易に格調あるいけ花をつくりうるところから大いに広まった。ことに当時、新しい文化の担い手としての著しい都市町人層の伸展に伴い、いけ花享受者人口が増大したところから、生花は非常な勢力で流行するとともに、さまざまな生花流派を生み出したのみならず、これらの流派の創始者は家元を名のり、家元制度をとって発展した。こうした家元制度のもと、定型化した生花は、江戸末期の爛熟(らんじゅく)、退廃的文化のなかで単なる遊芸の一つと化し、幕府の取締りを受けるようになると、生花諸流は幕府の儒教政策に迎合し、いけ花を人倫の道を明らかにするものであると唱えて「花道」と称した。また門戸を女性や子供に開き、三従の教えを説く女芸の一つとして喧伝(けんでん)することによって、女性の稽古(けいこ)事の筆頭にあげられるようになり発展した。

 形式化した生花の一方で、かつての抛入花の流れは、当時の文人や一部の数寄者(すきしゃ)の間で、流派や形式にとらわれぬ趣味の花として、「文人生(ぶんじんいけ)」が楽しまれ、自由な表現で無技巧のうちにも変化を求め、気品あるいけ花を生んでいる。この文人生は、煎茶(せんちゃ)の普及とともに中国詩文の教養を根拠にし、詩文から絵画へ、さらに文房、骨董(こっとう)、花へと、その余技の範囲の広がりのなかでたしなまれた花である。しかし、当初の文人の自由な精神も、その後、花材に仮託された中国詩文、画題、故事が文人生の主題となって、しだいに類型化してしまうのである。

[北條明直]

いけ花の近代化

明治維新の改革により、それまで幕藩体制の庇護(ひご)のもとにあったいけ花は、その経済的基盤を失い、著しく衰退したが、ただ江戸中期から潜在的な力をもっていた文人生は明治の高官たちに支援されていた。やがて日清(にっしん)、日露の両戦争を機に復古機運が高まり、富国強兵のもと良妻賢母の教育が進められると、いけ花もまた茶の湯、裁縫などとともに時代の脚光を浴び、女性必修のたしなみ事として普及発展を遂げた。同時に、旧来の伝統墨守に飽き足らず、洋花を取り入れた自由ないけ花として、「盛り花」「投入れ」が生まれ、新しい様式の胎動が始まった。

 1912年(大正1)、大阪の小原雲心(おはらうんしん)は池坊から独立し、当時流行した盆栽、盆景の水盤からヒントを得て、水盤状の花器を利用して写実的、叙景的な「盛り花」を創始し、また洋花を用いての色彩本位のいけ花の道を開いて小原流の始祖となった。雲心の盛り花は、当時の洋風住宅の普及しつつあった時代の生活様式に即応したいけ花として新鮮な印象をもって迎えられ、生花にとってかわる新しい時代のいけ花様式となった。

 東京では同じく池坊を出た安達潮花(あだちちょうか)が独自の盛り花、投入れを普及発展させた。両派とも花型の規格を定め、教授法を合理化し習いやすくしたので、近代的で手軽な室内装飾のいけ花として、大正時代の家庭婦人に迎えられた。当初こうしたいけ花に否定的だった池坊さえも、その隆盛に抗しきれず、「応用花」として認めるようになった。盛り花と投入れは大正期のいけ花界を風靡(ふうび)し、新興流派の続出を促すこととなった。

 小原雲心は1912年第1回の盛り花展を大阪三越百貨店で開いたが、以後デパートと花展は密接に結び付き、また安達潮花は『婦人世界』『主婦之友』『婦人倶楽部(くらぶ)』などの女性雑誌やラジオにも進出し、ジャーナリズムとの結び付きの先鞭(せんべん)をつけた。

 盛り花、投入れはいけ花の大衆化に大きな役割を果たしたが、反面、家庭趣味の域を出ないうらみがあった。当時、博学多才な教養人として知られた文人生の西川一草亭(いっそうてい)は、いけ花を心の表現だとする主体性を崩さず、軽便な室内装飾に堕した新興盛り花や投入れに対し、独自の境地を示して知識人から強い共感と支持を得た。

 こうした動向のなかから、昭和初期に「自由花」が関西の山根翠堂(やまねすいどう)によって提唱され、また美術評論家の重森三玲(しげもりみれい)による「新興いけばな宣言」が出されるなど、洗練された文化意識のもとに挿花芸術を唱導するもの、あるいは近代芸術理念からいけ花を造形芸術としてとらえなおそうとする試行があったが、やがて軍国主義の風潮に押し流され、いけ花の変革をもたらすには至らず、第二次世界大戦後に持ち越される形となった。

[北條明直]

戦後社会といけ花

1945年(昭和20)の第二次世界大戦終戦を契機に、一般に伝統的芸術に対する批判がおこり、いけ花界においても、新しいいけ花の創造に向かって果敢な活動が展開された。もろもろの伝統の制約から解放され、近代造形の視点からいけ花を出発させようとする「前衛いけ花」が、戦後のいけ花界を席巻(せっけん)した。

 前衛いけ花は素材を花のみに限定せず、積極的に異質素材も取り込み、花も無機物として扱うところから近代造形を試み、またシュルレアリスムの手法によるオブジェ作品、あるいは幻想的作品を生み出した。こうした前衛のオピニオン・リーダーとして活躍した人として、勅使河原蒼風(てしがはらそうふう)、中山文甫(ぶんぽ)、小原豊雲らがあげられる。

 しかしこの運動も封建遺制である家元制度と共存し、芸術上の運動としてのみ展開された観があり、戦後いけ花に近代造形やオブジェの理念を導入するにとどまって、前衛美術運動のエスプリ(神髄)にまでは至らず、伝統否定も不徹底なままに終わった。1955年以降の日本が高度成長の波にのると、流派のシェア争いによる企業化、さらには伝統見直し論などあって、前衛的革新性は後退してしまった。とはいえ前衛いけ花運動の遺産は、現代美術のさまざまな動向に刺激を求めようとする人たちによって引き継がれ、個展やグループ展、アンデパンダン展などを開かせている。いずれにしてもいけ花はこれからも、伝統依存の流派体制と作家の創造的意識のはざまで、振幅作用を繰り返しながら様式的変貌(へんぼう)を遂げていくであろう。

 いけ花流派は推定2000といわれるが、その消長が激しく実数はつかみにくい。1966年(昭和41)「日本いけ花芸術協会」が結成され、毎年花展を開催、いけ花の社会的認識を高めている。また1956年(昭和31)には「イケバナ・インターナショナル」が結成され、1960年には東京で「世界いけ花大展覧会」が催されるなど、いけ花の国際化も相互の交流とともに活発となった。

 いけ花人口は推定1000万~1500万人あたりとするが、第二次世界大戦後のいけ花の享受者は戦前のような嫁入道具の一つといった意識は少なく、戦後社会の構造の変化に伴い、大衆化した愛好者を急速に増大させた。それは嫁入り前の娘のしつけとしての要素よりも、教養的側面をもったレジャーとして女性の人気を得ているといえよう。さらに今後のいけ花は、環境デザインの芸術として広い意味での生活空間意識のうえにたった生活芸術としての発展が期待される。

[北條明直]

いけ花の技法

花のいけ方

一般的に、今日のいけ花を様式的に分類すると、立花(りっか)、生花(せいか)、投入れ、文人花(文人生)、盛り花、自由花の六つになる。それぞれのいけ方による特徴をあげると、次のようである。

 立花は、原則として花器が広口の花瓶で、胴が張って首が細くらっぱ形に開いたものが使われ、花材の挿し口には、器の中央に「こみ」とよばれる藁(わら)の束ねたものがはめ込まれて、それによって枝が留められ形がつくられる。枝は水面からまっすぐに立ち上がる中心線上に、主となる真の枝が挿され、その中心線上の真の高さに応じて左右に出てゆく役枝が、取り合いといって、枝の長さや中心線と交差する角度にバランスを保ちながら全体がつくりあげられる。構成の部分の名称は、上から真、正真(しょうしん)(正心、真隠しともいう)、副(そえ)、副請(そえうけ)、見越(みこし)、胴(どう)、前置(まえおき)、流枝(ながし)などとよばれ、これを道具といっている。

 生花は、立花に比べ道具だての役枝の数も少なく、主として省略された花材の線の美しさを強く打ち出し、立花が器の上に円形を形づくるのに対し、生花はむしろ半月形を描く。枝の留め方も、配りといって、枝の股木(またぎ)や器の口に一文字、十文字などの短く切った枝をはめ渡す方法が用いられる。

 投入れは、花瓶が細身で高い筒状のものにいけられ、枝や草花の風情ある姿を尊重し、簡素にいけあげるもので、留め方も花留めを用いず、花瓶の口や内壁とか底に枝が支えられるよう、縦・横に留める木を挟んでの留め方が使われる。

 文人花は、投入れにほとんど近く、投入れがいちおう形式をもつのに対し、形の自由性と花材の取合せや器との組合せに文人的な趣味が生かされる。

 盛り花は、横に広がりをもつ水盤に幅と奥行を広くとり、挿し口の広がりをもたせたもので、自然写景や色彩化、意匠化をねらったもっとも現代的ないけ花として普及する。水盤にいけるため、七宝(しっぽう)または剣山(けんざん)という花留めが使われる。

 自由花は、型にとらわれず、従来の慣習的な花の見方や植物の自然出生(しゅっしょう)に縛られた見方から脱し、創意に基づくいけ方で、素材を形のうえから、線、面、塊(マッス)として考えて構成し、花器も素材の一環としてとらえるほか、乾燥、加工、異質素材も取り込み、現代感覚に適応するものとしていける。

[北條明直]

花型

立花、生花などの古典いけ花はもちろんであるが、盛り花、投入れといったいけ花も、形態の基本的条件を満たす定型があり、花型とよばれる。流派によって構成や役枝の名称に違いがあるが、一般に3本の主となる枝が中心となって三角構成を形づくる。生花は天、地、人の三才をかたどる3本の役枝が三角形をつくり、花材の足もと(水ぎわ)が1本にまとまっている点で各流派共通し、中心となる役枝の「く」形(およびその逆の形)の湾曲の度合いや、それに伴う他の役枝の方向の決め方(振り出し)、曲げ方、基準寸法などの相違が、各流派の変化の見せ所になっている。盛り花、投入れの場合も、3本の役枝によって中心構成がなされ、主体となる役枝の振り出し方で、直態、斜態、横態、垂態などといった基本花型が定められているが、形態の名称や分類法、役枝の基準寸法や比率などが流派によって多少異なっている。

[北條明直]

基礎技術

いけ花の基礎技術は、切る、ためる、留めるの三つで、これに水揚げの技法が加わる。

[北條明直]

切り方

切る場合の道具は、鋏(はさみ)、鋸(のこぎり)、小刀など、枝の太さによって使い分ける。おもに鋏を用いて余分な枝葉を落として花材を整え、留めのために花材の根元を都合よく切る。鋏を入れて花材を整えることを一般には「枝を透かす」といい、花材の持ち味を殺さない限り、枝葉の密接や交差はこれを嫌って切り落とし、また同一方向や同じ形に見える枝葉の重複を避ける。

 花留めのための根元の切り方は、多くの場合、斜め切りにする。これは、花器の内側や剣山に密着、固定させ、また吸水面を広くするためで、太めのものは斜め切りしたうえに、切り口に縦に二つ割り、四つ割りの割れ目を入れる。草物は水平切りにして剣山に挿し込みやすくする。この根元の切り方は、花留めの方法、役枝の位置、花材などの相違により適宜な方法が必要で、これによって花配りの良否が決定されるので、経験による技術が要求される。

[北條明直]

ため方

定型に合致するように花材のゆがみを直したり曲げたりする技法で、生花の場合とくにその技術が要求される。木物をためるときには、両手の親指の腹や手のひらでためたい部分を受け、上下で押し縮めるようにして曲げる「つま先ため」、太くて曲がりそうにないものは、鋏で櫛(くし)形に切り目を入れる「切りため」、鋏の柄(え)を利用してしごく「挟みため」などの方法がある。

 草物の場合には、茎をねじりながら曲げたり、柔らかい葉はゆっくりしごいて目的の形とする。これらは自然のままの花材に手を加え、いけ花の美しさをつくりだす技法といえるが、水揚げにも支障をきたさないよう配慮が必要である。

[北條明直]

留め方

花材を花器に定着させることを花留めといい、いけ花の技法のなかでも重要なものとされる。とくに生花では水ぎわを1本にするという特殊な留め方であるため、流派によりその技法や名称に相違があり、それが流派の特色ともなっている。

 一般には股木(またぎ)(池坊系)、割木密(わりこみ)(古流系)などの名でよばれ、樹枝の一端をV字形、Y字形に割り込み、それを花器の口にはめ込んで、分岐した枝の間に、花材の根元を一つにまとめて定着させる。このほか、井筒(いづつ)、丁字(ちょうじ)、十文字などの形に組み合わせる。

 盛り花の花留めは、剣山、石止(いしどめ)、七宝、蛇籠(じゃかご)などの器具を用いるが、ほとんど剣山だけでも事足りるので、今日では各流ともこれを利用している。剣山を使用する場合には、枝の物は根元を斜め切りにし、できるだけ根元近くを持って剣山に垂直に挿し込み、そのあとで目的の傾斜度まで傾ける。枝が太いときには根元に縦の割れ目を入れる。草物は水平に切り口を入れ、剣山とぴったりあわせて安定させる。細すぎて留まらない場合は、添え木を当てるか紙を巻き、また空洞のある花材には他の小枝を心木にして挿す。傾斜度が大きすぎて剣山がぐらつくときは、別の剣山を裏返しにし、針と針とをかみ合わせて重石(おもし)とする。

 投入れの場合には、花器が深い瓶や壺(つぼ)状であるから、挿し口に樹枝をはめ込んだ一文字留め、十文字留めを用いるか、花材の枝に仕掛けをした切り留め、割り留めなどを用いる。いずれの留め方も、花材と花器の関係は、重心と「てこ」の応用で決めるのがこつである。

[北條明直]

水揚げ

採集した花をいけるのがいけ花の本質だが、「花は切り取られたとき、いけられている」といわれるように、採集に際してすでにいけることへの配慮がたいせつである。採集を目的とするときは、かならず水筒を用意し、切り取るときには水をかけながら切る。切り取ったなら、その場で2~3回水切りをするか、根をたたいておく。さらに全体をぬれた紙に包み、なるべく太陽や風に当てないように注意して持ち帰る。その後2~3回水切り後、深い容器の中に2~3時間放置する。この場合、暗い所のほうが吸水作用がよい。

 いけた花を長もちさせるために水揚げの技法がある。昔、水揚げは秘伝とされ、いけ花作者が独自に案出し、限られた人だけに教えていたもので、口から口へ伝えられた。

 もっとも簡単な水揚げ法は水切りで、花材を水中で斜めに切り直し、道管に気泡が入って吸水力を妨げることのないようにする方法である。枝物や茎の堅い草物などの場合は、切り口を裂き広げたり、切り口をたたいたり、砕いたりすることもある。このほか、根元の切り口を焼いたり、熱湯につけたりする方法もある。焼くのは、切り口を炭化させ、水揚げ能力を促進させるためである。新芽の枝物や菊など大量に水揚げするときは熱湯につける方法がとられる。アルコール、酒、酢、ハッカ水、塩、灰汁(あく)、ミョウバンを用いる場合もあり、またハス、コウホネ、スイレン、カイウなどの水生植物には、酢酸鉛の水溶液を水揚げポンプを用いて茎に注入し、水揚げを促進させる方法もある。また冷蔵庫に入れて保有する方法もとられ、水揚げ方法も一定したものではなくなりつつあり、特殊の花材についてはそれぞれ独自の研究による方法がとられる。

[北條明直]

花器

花器は材料によって区別すると、木製(挿し口には金属を用いる)、竹製(挿し口は金属)、陶磁器、金属器(銅、鉄、青銅、真鍮(しんちゅう)、金、銀、錫(すず))があり、そのほかガラス、エボナイト、セルロイド、プラスチック、ゴムなどの材料も使われる。

 用途のうえから区別すると、丈が低く、面の広がりをもった水盤状の花器は盛り花用で、丸型水盤を基調とし、小判型、長方型、角型、半円型、三角型、変形型とあり、水盤の形式に高台(こうだい)のついたコンポート型も多く用いられている。壺(つぼ)状の花器は投入れ用で、意匠的な要素が強く、円筒型を基本形とし、細口やジョッキ型など多様で、置かれるもの、掛けられるもの、上からつるすものがある。生花の場合には、真、行、草といった花型の区別に応じて花器も使い分けられる。真の花器は竹筒の寸筒(ずんどう)や、これに近い細長いもの、行の花器は薄端(うすばた)といって金属製の薄手の口の広い花器や、壺型のものが用いられ、草の花器は、つり花や掛け花入れ、船形や月形や二重切(上下二段になり、上口と下口の両方にいけるようになっている)が用いられる。

 いずれにしても「花を得ぬ前に花器を選ぶな」のことばがあるように、花材との調和を第一に、花器の色彩、形、材質を選ぶべきである。純粋に花器としてつくられたもの以外の各種生活容器、たとえば灰皿、菓子器、湯飲み、化粧瓶、飲用器の瓶などの代用花器が趣味的に生かされるほか、石膏(せっこう)、セメント、針金、割り竹、プラスチックなどによる創作花器の使用も盛んである。

 花器は花台に置かれる場合が多い。花台は卓状や机状のもの、脚のない薄板(うすいた)や簀子(すのこ)などが用いられる。さらに花席の床には、織布、紙、砂などといった敷物が敷かれる。また垂撥(すいばち)(「すいはつ」ともいう)といって、釘(くぎ)を打つことのできない場所に、掛け花用花器を掛けるための道具がある。

[北條明直]

いけ花の鑑賞

今日では鑑賞のための特別な作法というものはなく、わけても自由花や前衛的いけ花などにあっては、作品の主題や美的表現を理解することが唯一の鑑賞法といえよう。

 しかし、床飾りとしてのいけ花の鑑賞法には伝統的作法があり、いちおうその簡単なものは心得ておくほうがよい。床前の畳(貴人畳(きにんだたみ))一畳は貴人の座とされ、いけ花と対座するにはこれを隔てて座る。この程度の距離があったほうが鑑賞するにも都合がよい。そして、まず掛軸を見てから、いけ花や置物に視線を移すのが礼にかなった作法とされているが、その家の主人がいけ花をとくに見せたいとしている場合には、花から見てもいっこう差し支えない。いけ花の鑑賞の仕方としては、まず、いけ花全体を見通し、次に役枝の配合を味わい、もとに返って全体の統一、花器、花台との調和の美を探るのが順序となっている。拝見後の挨拶(あいさつ)は慣例的なことばよりも、礼を失しない程度に自身の感想を述べることがよい。

[北條明直]

いけ花の習い方

今日いけ花を習う場合の場所として、個人教場、いけ花教室、いけ花学園、会社・学校などのクラブ活動としての団体指導、出張指導などがある。自分の目的に従った選び方が必要で、余技程度の楽しみとして習う場合と、専門化し職業化する場合とは異なる。免許は、流儀花系では初伝、中伝、奥伝という分け方をしているのに対し、自由花系では本科、師範科、教授と大別し、さらに本科を3段階、師範科を2段階、教授資格を5段階に分割しているところもある。およそ2~3年でひととおり学び終わり、「門標(もんぴょう)」という鑑札が与えられる。これ以上の昇格は能力、技術のみならず、年功序列、財力などの条件に支配され、各流派とも10階級以上の階級制をもっている。

 いけ花流派の数は、2000以上ともいわれているが、そのなかで代表的な活動をしている流派の数は600から700とみていい。

 流派の傾向の分類はおおまかに、立花から現代花までをもつ流派、生花と現代花をもつ流派、現代花中心の流派の3類に区分される。しかし立花、生花、現代花と三つの様式をもつものも、かならずしも三つをつねに教えているとはいえず、立花、生花を古典として位置づけ、何年かのちにこれを教えるという傾向も強い。一般には、盛り花、投入れといった現代花から入門するのが普通で、立花などは専門的なものとして研究の段階で触れることになる。大手流派といわれ全国的に支部組織をもつ流派の筆頭は、池坊(いけのぼう)、小原(おはら)、草月の3流で、それに次ぐ勢力をもつといわれるものは、関東では龍生(りゅうせい)派と古流松藤(しょうとう)会、関西では嵯峨(さが)流と未生(みしょう)流であると一般的にいわれている。

[北條明直]

『華道沿革研究会編『花道古書集成』全5冊(1970・思文閣)』『『オールカラーいけばな全書』全8巻(1971・小学館)』『続花道古書集成刊行会編纂『続花道古書集成』(1972・思文閣)』『主婦の友社編・刊『いけばな総合大事典』(1980)』『細川護貞ほか編『いけばな美術全集』全10巻(1982・集英社)』『大井ミノブ編『いけばな辞典』新装普及版(1990・東京堂出版)』『伊藤敏子著『いけばな――その歴史と芸術』(1991・教育社)』『工藤昌伸著『日本いけばな文化史』全5巻(1992~1995・同朋舎出版)』『北條明直著『いけばな人物史』『いけばなとは何か』『花の美学』(『北條明直著作集』1~3・1997・至文堂)』『主婦の友社編・刊『必携いけばな便利帳』(1998)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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