斎藤与里(読み)サイトウ ヨリ

20世紀日本人名事典 「斎藤与里」の解説

斎藤 与里
サイトウ ヨリ

明治〜昭和期の洋画家



生年
明治18(1885)年9月7日

没年
昭和34(1959)年5月3日

出生地
埼玉県加須市

本名
斎藤 与里治

学歴〔年〕
聖護院洋画研究所(京都)

経歴
浅井忠鹿子木孟郎の塾に学び、明治39年渡仏、パリのアカデミー・ジュリアンジャン・ポール・ローランスに学ぶと共に後期印象派の影響を受けた。41年帰国、西欧的な個性表現を主張する評論、作品を発表。大正元年高村光太郎、岸田劉生らとフュウザン会結成、新しい絵画運動を展開した。2年同会解散、5年第10回文展に出品した「収穫」が特選となり、以後官展系作家として活躍。8年大阪美術学校を創設。13年春陽会会員となたが15年退会。別に槐樹社にも参加、昭和6年同会解散、7年東光会創立に参加。9年第15回帝展以後、審査員を務め、戦後は日展参事、評議員を務め、風景画を多く描いた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「斎藤与里」の意味・わかりやすい解説

斎藤与里【さいとうより】

洋画家。本名与里治。埼玉県生れ。1906年渡仏してアカデミー・ジュリアンで学び,後期印象派共鳴,1908年帰国後太平洋画会展に滞欧作を発表した。その後フュウザン会槐樹社,東光会の結成に参画し,大阪美術学校設立にも参与。《美術新論》の主幹としても活躍した。
→関連項目川口軌外矢野橋村

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤与里」の解説

斎藤与里 さいとう-より

1885-1959 明治-昭和時代の洋画家。
明治18年9月13日生まれ。浅井忠(ちゅう),鹿子木孟郎(かのこぎ-たけしろう)の画塾でまなび,渡仏。帰国後,後期印象派,フォービスムを日本に紹介。大正元年岸田劉生(りゅうせい)らとヒュウザン会を結成。5年文展で「収穫」が特選。のち大阪美術学校,槐樹(かいじゅ)社,東光会を創立。戦後,日展参事となる。昭和34年5月3日死去。73歳。埼玉県出身。本名は与里治。

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367日誕生日大事典 「斎藤与里」の解説

斎藤 与里 (さいとう より)

生年月日:1885年9月13日
明治時代-昭和時代の洋画家
1959年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の斎藤与里の言及

【フュウザン会】より

…フュザンfusainとはデッサン用の木炭のこと。1912年(大正1)斎藤与里(より)(1885‐1959),岸田劉生,清宮彬(せいみやひとし)(1888‐1969)が発起して結成,その年10月に銀座京橋の読売新聞社3階で第1回展覧会をひらいた。結成当初は〈ヒュウザン会〉と称し,のちフュウザン会に改められた。…

【明治・大正時代美術】より

…これらは黒田流文展系アカデミズムの平面的な描写=外光主義にあきて,新しい方向を求めていた青年画家たちに強い影響を与えるようになった。このころ斎藤与里(より)(1885‐1959),柳敬助(1881‐1923),津田青楓(1880‐1978),藤島武二,有島生馬,南薫造(くんぞう)(1883‐1950),山下新太郎(1881‐1966),石井柏亭(鶴三の実兄),斎藤豊作(とよさく)(1880‐1951),高村光太郎らが,フランス印象派の手法をたずさえて次々に帰国している。そして1910年高村光太郎が《スバル》に発表した論文《緑色の太陽》は,自然を見る人間の内面的な活動,人格(自我)の表現を主張し,わが国における印象派宣言として青年画家たちを狂喜させた。…

※「斎藤与里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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