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斎藤与里 さいとう より

美術人名辞典の解説

斎藤与里

洋画家。埼玉県生。名は与里治。京都聖護院洋画研究所に学ぶ。渡仏しローランスに師事。帰国後は後期印象派を日本に紹介し、岸田劉生らとフュウザン会を結成するなど、洋画界進展に大きな役割を果たした。のち大阪に移り、矢野橋村と大阪美術学校を設立した。春陽会会員。槐樹社創立会員・東光会創立会員。日展参事。文展・帝展特選。昭和34年(1959)歿、73才。

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百科事典マイペディアの解説

斎藤与里【さいとうより】

洋画家。本名与里治。埼玉県生れ。1906年渡仏してアカデミー・ジュリアンで学び,後期印象派に共鳴,1908年帰国後太平洋画会展に滞欧作を発表した。その後フュウザン会,槐樹社,東光会の結成に参画し,大阪美術学校設立にも参与。
→関連項目川口軌外矢野橋村

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

斎藤与里 さいとう-より

1885-1959 明治-昭和時代の洋画家。
明治18年9月13日生まれ。浅井忠(ちゅう),鹿子木孟郎(かのこぎ-たけしろう)の画塾でまなび,渡仏。帰国後,後期印象派,フォービスムを日本に紹介。大正元年岸田劉生(りゅうせい)らとヒュウザン会を結成。5年文展で「収穫」が特選。のち大阪美術学校,槐樹(かいじゅ)社,東光会を創立。戦後,日展参事となる。昭和34年5月3日死去。73歳。埼玉県出身。本名は与里治。

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大辞林 第三版の解説

さいとうより【斎藤与里】

1885~1959) 洋画家。埼玉県生まれ。浅井忠、鹿子木孟郎に学び、渡仏。帰国後、後期印象派を紹介。フュウザン会の結成に参加した。

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世界大百科事典内の斎藤与里の言及

【フュウザン会】より

…フュザンfusainとはデッサン用の木炭のこと。1912年(大正1)斎藤与里(より)(1885‐1959),岸田劉生,清宮彬(せいみやひとし)(1888‐1969)が発起して結成,その年10月に銀座京橋の読売新聞社3階で第1回展覧会をひらいた。結成当初は〈ヒュウザン会〉と称し,のちフュウザン会に改められた。…

【明治・大正時代美術】より

…これらは黒田流文展系アカデミズムの平面的な描写=外光主義にあきて,新しい方向を求めていた青年画家たちに強い影響を与えるようになった。このころ斎藤与里(より)(1885‐1959),柳敬助(1881‐1923),津田青楓(1880‐1978),藤島武二,有島生馬,南薫造(くんぞう)(1883‐1950),山下新太郎(1881‐1966),石井柏亭(鶴三の実兄),斎藤豊作(とよさく)(1880‐1951),高村光太郎らが,フランス印象派の手法をたずさえて次々に帰国している。そして1910年高村光太郎が《スバル》に発表した論文《緑色の太陽》は,自然を見る人間の内面的な活動,人格(自我)の表現を主張し,わが国における印象派宣言として青年画家たちを狂喜させた。…

※「斎藤与里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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