デジタル大辞泉 「斎藤彦麿」の意味・読み・例文・類語 さいとう‐ひこまろ【斎藤彦麿】 [1768~1854]江戸後期の国学者。三河の人。石見いわみの松平氏に仕え、江戸に住み、賀茂季鷹・伊勢貞丈・本居宣長に学んだ。著「勢語図説抄」、歌集「蓬蕽集ほうどうしゅう」など。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
改訂新版 世界大百科事典 「斎藤彦麿」の意味・わかりやすい解説 斎藤彦麿 (さいとうひこまろ)生没年:1768-1854(明和5-安政1) 江戸後期の国学者。はじめ荻野小太郎智明と称した。のち通称彦六郎,字は可怜(うまし)。葦仮庵(あしのかりほ),宮川舎と号す。生国は三河であるが,石見浜田藩士として江戸に住した。伊勢貞丈,賀茂季鷹について有職故実や歌を学んだのち,本居宣長に入門,のち一家を成す。宣長の学問を信奉して,《玉のゆくへ》や《竹箒(たかははき)》を著し,村田春海を攻撃するなどした。山東京伝一派の人々とも交際があった。著書はほかに《神道問答》《勢語図説抄》《諸国名義考》《傍廂(かたびさし)》《神代余波(かみよのなごり)》など。執筆者:鈴木 淳 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「斎藤彦麿」の解説 斎藤彦麿 没年:安政1.3.12(1854.4.9) 生年:明和5.1.5(1768.2.22) 江戸後期の国学者。石見(島根県)浜田藩士。三河国(愛知県)矢作の生まれ。本姓荻野氏。初名智明。通称彦六郎,字可怜,号宮川舎,葦仮庵。寛政8(1796)年(7年説もあり)斎藤家を相続して,石見浜田藩松平康任に仕えて江戸に住む。伊勢貞丈,賀茂季鷹に学び,また宣長門人を自称していたが,実際は本居大平門人であった。山東京伝らの戯作者とも交わりがあったと伝えられる。門人は500人を超えた。著書は神道,古典注釈,国語学から随筆まで数多く,雑学者という印象が強い。家集に『葦仮庵集』。著作に『神道問答』『酔中五論』など。<参考文献>大橋紀子「葦仮庵斎藤彦麿」(『学苑』7巻11号) (飯倉洋一) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤彦麿」の解説 斎藤彦麿 さいとう-ひこまろ 1768-1854 江戸時代後期の国学者。明和5年1月5日生まれ。石見(いわみ)(島根県)浜田藩につかえ,江戸にすんだ。賀茂季鷹(すえたか),伊勢貞丈(さだたけ)にまなび,のち本居大平(もとおり-おおひら)の門にはいる。山東京伝らとも親交があった。嘉永(かえい)7年3月12日死去。87歳。三河(愛知県)出身。本姓は荻野。初名は智明。字(あざな)は可怜(かれい)。通称は彦六郎。号は宮川舎,葦仮庵。著作に「神道問答」「枕草紙図抄」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斎藤彦麿」の意味・わかりやすい解説 斎藤彦麿さいとうひこまろ [生]明和5(1768)[没]安政1(1854)江戸時代後期の国学者。名は智明,号は葦仮庵 (あしのかりほ) 。伊勢貞丈,本居宣長に学ぶ。神道にも造詣が深い。著書『神道問答』『改正神代記』『傍廂』。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
367日誕生日大事典 「斎藤彦麿」の解説 斎藤彦麿 (さいとうひこまろ) 生年月日:1768年1月5日江戸時代中期;後期の国学者;石見浜田藩士1854年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by