デジタル大辞泉
「村田春海」の意味・読み・例文・類語
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むらた‐はるみ【村田春海】
- 江戸中期の国学者、歌人。字は士観、号は琴後翁など。春海はその雅名。江戸の人。賀茂真淵に古学を学び、和歌をよくした。一時、阪昌周の養子となり阪大学、昌和と称したが、兄の死にともない干鰯問屋の家督を相続して本姓に復した。家業倒産後、歌学・国学を教授し、真淵没後の江戸古学派の中心となった。文章にすぐれ、「琴後集(ことじりしゅう)」などの和歌集、「竺志船物語」などの作品、「歌がたり」「和学大概」などの著述がある。延享三~文化八年(一七四六‐一八一一)
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村田春海
むらたはるみ
(1746―1811)
江戸後期の歌人、国学者。字(あざな)を士観(さちまろ)、号を琴後翁(ことじりのおきな)・織錦斎(にしごりのや)など、通称を平四郎という。江戸・日本橋の豪商の家に生まれる。父春道や兄春郷(はるさと)とともに賀茂真淵(かもまぶち)に学んだ。一時、幕府の連歌師阪昌周(ばんしょうしゅう)の養子となり、阪昌和を名のった。のち村田家に戻って家を継いだが、大通漁長(だいつうぎょちょう)(一説に帆船)の名で遊蕩(ゆうとう)し破産した。以後、松平定信(さだのぶ)から出入り扶持(ぶち)を給されるなどの眷顧(けんこ)を受け、加藤千蔭(ちかげ)とともに江戸の歌壇に重きをなした。青年時代には一時期、服部仲英(はっとりちゅうえい)や鵜殿士寧(うどのしねい)に従って漢詩文を学んだこともある。真淵の門人であるが、歌風は真淵の万葉風を受け継がず、古今調の才気の勝った理知的な詠風を特徴とする。しかし、歌よりも、むしろ漢詩文の素養に基づく流麗暢達(ちょうたつ)な文章にみるべきものがあり、この時期の名文家と評されている。家集に『琴後集(ことじりしゅう)』(1813)があり、「心あてに見し白雲(しらくも)は麓(ふもと)にておもはぬ空に晴るゝ富士のね」などの代表歌を収める。擬古小説に『竺志船(つくしぶね)物語』(1814)があり、『織錦斎随筆』などの随筆も多い。また毒舌家で論難書も多いが、千蔭とともに匿名で香川景樹(かげき)の歌を非難した『筆のさが』が名高い。文化(ぶんか)8年2月13日没。
[揖斐 高]
『『村田春海』(『森銑三著作集7』所収・1971・中央公論社)』
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村田春海
没年:文化8.2.13(1811.3.7)
生年:延享3(1746)
江戸中・後期の歌人,国学者。本姓平。字士観。通称平四郎,伝蔵。織錦舎,琴後翁 と号した。また一時幕府連歌師阪家の養子となり,阪昌和,阪大学と称す。江戸日本橋小舟町の干鰯問屋村田春道の次男。兄は春郷。春道は賀茂真淵の庇護者となり,真淵は春郷の才を高く評価していたため,自然と春海も真淵の指導を仰ぐことになったが,若年時の関心はむしろ漢詩文の方にあり,鵜殿士寧,服部仲英 などに学んだ。また熊本の秋山玉山にも少年の折に会したことがあった。春海の漢詩人,儒者との交遊はこののちも続くことになる。 兄春郷,父春道,師真淵が相次いで没したあとは,もともと学問に専念するタイプではないだけに風流な享楽生活を送るのみで,家産は急速に減じた。漁長の名で十八大通のひとりに数えられたのは有名だが,実体は明らかでない。しかし破産同然に財産を人手に渡したのは確かで,和歌,和文の教授に生活の資を得る不安定な生活が始まった。京坂に上ることもあり,皆川淇園,木村蒹葭堂,伴蒿蹊,賀茂季鷹ら上方の文人とも知り合う。なかでも特筆すべきは本居宣長との交渉である。対立のみが取り上げられがちなふたりであるが,春海が宣長の学問に敬意を表し,真淵の家集『賀茂翁家集』編纂に当たっては宣長の意向を汲んでいる事実も忘れてはならない。ただし宣長のやや行きすぎた古代崇拝と漢意排斥には否定的であった。 ともに江戸派の代表として並び称された加藤千蔭には兄事し,万葉集の会読にも参加している。国学者としてまとまった著述は残し得なかったが,漢詩文の素養と古学の融合した独特の和歌,和文は江戸市中にもてはやされた。歌文集『琴後集』が代表作。他に『五十音弁誤』『歌がたり』『織錦舎随筆』などがある。<参考文献>関根正直『からすかご』,森銑三「村田春海」「村田春海遺事」(『森銑三著作集』7巻)
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村田春海【むらたはるみ】
江戸中・後期の歌人,国学者。通称平四郎。号は琴後翁(ことじのりのおきな),織錦斎(にしごりのや)。家は江戸の富商。兄の春郷若死後,家業を継ぐ。遊興を好み,十八大通の一人に数えられたが,破産して零落。賀茂真淵門下で歌・文に長じ,加藤千蔭とともに県門の双璧と称せられる。仮名遣いの研究にも業績をあげた。また《新撰字鏡》を発見・紹介したことで知られる。門下に岸本由豆流(ゆずる),清水浜臣ら,主著に家集《琴後集》,《仮字大意抄》《歌がたり》などがある。
→関連項目小山田与清|擬古文|擬古物語
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村田春海 (むらたはるみ)
生没年:1746-1811(延享3-文化8)
江戸中期の国学者。通称は平四郎。舎号は錦織舎(にしごりのや),琴後翁(ことじりのおきな)。江戸日本橋の富裕な干鰯(ほしか)問屋に生まれる。父春道,兄春郷にならい幼年より賀茂真淵に従学。歌文に秀れた才を発し,加藤千蔭とともに真淵門下の双璧と称せられる。遊興を好み,十八大通の一人に数えられたが,そのため家産を傾けた。歌風は古今調を理想とし,江戸派と呼ばれ,歌壇に大きな勢力を張った。本居宣長とも交友したが,その古道説や漢学排斥には終始批判的で,本居派とは一線を画した。門下に清水浜臣,岸本由豆流,小山田与清などの逸材が出ている。《新撰字鏡》を発見,紹介したことでも知られる。著書に《琴後集(ことじりしゆう)》《和学大概》《歌かたり》《織錦斎随筆》など。
執筆者:南 啓治
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村田 春海
ムラタ ハルミ
大正・昭和期の詩人,ロシア文学者
- 生年
- 明治36(1903)年1月30日
- 没年
- 昭和12(1937)年3月26日
- 出生地
- 大阪府堺市
- 学歴〔年〕
- 早稲田大学露文専攻科卒
- 経歴
- 三高独文科体学後、ロシア文学に転じ、早大では片上伸の指導のもと、プーシキンを研究。大正14年「主潮」を創刊、「詩」「詩神」「民謡詩人」「虚無思想」などに寄稿。昭和2年以降は短篇小説も手がけた。ロシア文学の紹介につとめ、ゴーリキーの「母」を初めて翻訳。多くの翻訳書があり、没後黒田辰男編「村田春海詩集」が刊行された。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
村田春海
むらたはるみ
[生]延享3(1746).江戸
[没]文化8(1811).2.13. 江戸
江戸時代中期~後期の国学者,歌人。号は琴後翁 (ことじりのおきな) ,錦織斎 (にしごりのやのあるじ) 。賀茂真淵の門に入り,国学,歌道を学び,加藤千蔭とともに真淵門下の双璧とされた。国学の面ではかなづかい,五十音の研究を行なったが,平安時代に作られ存在の知られなかった漢和辞書『新撰字鏡』を発見。清水浜臣 (はまおみ) ,岸本由豆流 (ゆずる) ,小山田与清 (ともきよ) などのすぐれた弟子を育て,国学の発展に尽した。主著『和学大概』 (1792) ,家集『琴後集』 (1810) ,戯作『竺志船物語』。
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村田春海 むらた-はるみ
1746-1811 江戸時代中期-後期の国学者。
延享3年生まれ。村田春道の次男。江戸の干鰯(ほしか)問屋。賀茂真淵(かもの-まぶち)の門人で,県門四天王のひとり。雅文にすぐれ,加藤千蔭(ちかげ)とともに江戸派の双璧と称される。少壮時には十八大通(だいつう)のひとりにかぞえられ,遊興で家産をうしなった。文化8年2月13日死去。66歳。字(あざな)は士観(さちまろ)。通称は平四郎。号は琴後翁(ことじりのおきな),織錦斎。著作に「和学大概」「琴後集」など。
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村田春海
むらたはるみ
1746~1811.2.13
江戸中・後期の国学者。本姓は平,通称は平四郎,字は士観(さちまろ),号は織錦斎・琴後翁(ことじりのおきな)。江戸の干鰯(ほしか)問屋に生まれ,幕府連歌師の坂昌周の養子となる。のち本家を相続したが身代を傾け,隠居後は風雅を事とした。漢籍を服部白賁(はくひ)に,国典を賀茂真淵に学び,加藤千蔭とともに江戸派歌人の領袖として名を馳せ,松平定信の寵遇をうける。著書は歌文集「琴後集」「和学大概」「竺志(つくし)船物語」。真淵の「賀茂翁家集」を編纂した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
村田春海
むらたはるみ
1746〜1811
江戸中・後期の歌人・国学者
通称平四郎。号は琴後翁 (ことじりのおきな) ・錦織斎 (にしごりのやのあるじ) など。江戸の人。賀茂真淵 (まぶち) の門に入り,縣門十二大家の一人。加藤千蔭とともに江戸派歌風の双璧と称され,和歌・国学・漢学に通じ,書をよくし文章もすぐれていた。著書に家集『琴後集』,『和学大概』など。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の村田春海の言及
【国学】より
…のみならず,儒学,仏教はもとより,キリスト教までが日本の正史の伝承の訛伝(よこなまり)であるとして,日本普遍思想ともいうべき排外主義への傾斜を深め,国学のイデオロギー化への一転機をもたらしたのである。 一方,真淵の門弟だった[村田春海](むらたはるみ)は,真淵が人に教えた〈道〉とは,〈歌のまなびと,古書を解釈する学〉(《明道書》1804編)以上のものではなかったとする信念から,宣長の古道信仰に対してはこれを〈付会の説〉と評してきわめて批判的であった。古学を思想的な〈道〉の理念に結びつけることに冷静な距離を保ったのである。…
※「村田春海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」