新発田城下(読み)しばたじようか

日本歴史地名大系 「新発田城下」の解説

新発田城下
しばたじようか

[現在地名]新発田市大手おおて町一―六丁目・中央ちゆうおう町一―四丁目・大栄だいえい町一―七丁目・御幸みゆき町一―三丁目・西園にしぞの町一丁目・同三丁目・城北じようほく町一丁目・ほん町一―二丁目・諏訪すわ町一―三丁目

現市域西部、加治かじ川左岸の沖積低地に建設された、新発田藩溝口氏一二代の城下町。慶長三年(一五九八)溝口氏入封以前に同地には戦国期の新発田氏の居城があった。ある程度の城下町が形成されていたと考えられ、それを中核として発展した城下である。

西北部に新発田城本丸を置き、二ノ丸・三ノ丸が新発田川を外堀として東南に延び、その南に武家町・町人町が広がる。武家町の南に東西に並ぶ上・中・下の町人町三町は本町と総称され、その南側、町裏を西流する堀(新発田川)を隔ててしん町七町(立売町・万町・指物町・麩屋町・桶町・材木町・紺屋町)が並ぶ。北上してきた会津街道は左折して新発田川を渡り、大木戸(立売町大木戸)から城下に入る。立売たちうり町西端で鉤の手に折れてよろず町を北上、かみ町に入る。上町ふだつじ脇から大手先を北上すれば三ノ丸の大手門に至るが、その前を中町・下町と西進して大木戸(下町大木戸)から城下を出ると、西方猿橋さるはし村へ下杉縄手しもすぎなわての道が続く。城下東南と南縁部には寺院が配されて寺町を形成、城下出入口の立売町大木戸外に上鉄砲かみてつぽう(上足軽町)、下町大木戸外に下鉄砲町(下足軽町)が置かれた。時代とともに城下は拡張し、新町の下手、下鉄砲町の南に職人しよくにん町、材木ざいもく町・紺屋こんや町の南に定役じようやく町、指物さしもの町・麩屋ふや町・おけ町の南には町裏(のち田所町)の屋敷町ができた。東南の寺町の外側にはいずみ町があり、その南、立売町から東進したところに諏訪前すわまえ、その南の上鉄砲町東側にひがし町が位置する。なお泉町東町は村方支配であった。そして上鉄砲町の西、新発田川左岸には藩主下屋敷の清水谷しみずだに御殿があった。

〔城下の形成〕

溝口秀勝は初め五十公野いじみのに入り領内を杖量したといわれ、加賀大聖寺だいしようじ(現石川県加賀市)から随従した寺院や職人らも当初は五十公野に置かれた。本町三町のうち下町の地割普請が慶長一四年に行われているから(蕉鹿年代記)、上・中両町はそれ以前の成立と考えられ、同一五年頃の給知方ほど役帳(新発田市史資料)には「新発(ママ)町」「御小人町」「立町(立売町)「かち町」(徒士町か)などが記される。城下町の形成とともに築城も進展し、同一六年には秀勝夫人瑞雲院の二ノ丸御殿居住のことがみえる(御記録)。寺院も寺町に集められ、寛永二年(一六二五)には鍛冶職人を五十公野から城下三ノ丸外に移して鍛冶かじ町が作られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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