新納忠元(読み)にいろただもと

改訂新版 世界大百科事典 「新納忠元」の意味・わかりやすい解説

新納忠元 (にいろただもと)
生没年:1526-1610(大永6-慶長15)

戦国時代の武将。南九州の戦国大名島津氏の一族新納氏の分家祐久の子。刑部大輔,拙斎為舟。薩摩大口地頭。島津忠良~家久歴代の重臣。北薩菱刈氏攻めの際負傷しながらの働き,曾木天堂尾(てんどうがお)での豊臣秀吉との堂々たる対面,あるいは13年間にわたる在京人質など戦国島津氏の家臣中最大の軍功をあげ,同家臣団を代表する武人と称えられた。和歌連歌への造詣が深い。
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朝日日本歴史人物事典 「新納忠元」の解説

新納忠元

没年慶長15.12.3(1611.1.16)
生年大永6(1526)
戦国・安土桃山時代の武将。祐久の子。幼名安万丸。次郎四郎。刑部大輔,武蔵守。入道して拙斎,為舟。島津氏一族新納氏の支流の出で島津氏に仕え,天文7(1538)年以来貴久,義久,義弘,家久の4代に仕える。永禄5(1562)年横川城(鹿児島県横川町)攻め,同11年馬越城(同菱刈町)攻めに戦功を上げ,「義久の四天王」「鬼武蔵」などの武名を称された。以後連年のように従軍し,天正13(1585)年から同15年にかけて筑紫地方や豊後(大分県)に転戦したが,豊臣秀吉の征討にあい大口城(同大口市)に拠って抵抗,義久の勧めでようやく下り剃髪した。降伏の態度は微塵の卑屈なく秀吉を感服させたといい,家中への遺訓二才咄格式定目』は長く薩摩武士規範とされた。

(今谷明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「新納忠元」の解説

新納忠元 にいろ-ただもと

1526-1611* 戦国-江戸時代前期の武士。
大永(たいえい)6年生まれ。薩摩(さつま)(鹿児島県)島津家の4代の当主につかえる。天正(てんしょう)12年島原の戦いで竜造寺隆信をたおすなど各地を転戦,鬼武蔵とよばれた。文禄(ぶんろく)・慶長の役で留守をあずかったときにつくった「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」は,江戸時代の薩摩武士の生活規範となった。慶長15年12月3日死去。85歳。号は為舟,拙斎。
【格言など】諸事武辺を心懸け,心底忠孝之道に背かざる事,第一の二才と申者にて候(「二才咄格式定目」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新納忠元」の意味・わかりやすい解説

新納忠元
にいろただもと

[生]大永6(1526)
[没]慶長15(1610).12.3. 薩摩
安土桃山時代の武将。島津氏の重臣。祐久の子。幼名,安万丸。通称,次郎四郎。号,為舟,拙斎。島津貴久,義久,義弘,家久に仕えた。天文 12 (1543) 年大口城主となった。天正 15 (87) 年豊臣秀吉の島津征伐には,敵将加藤清正らと対戦し屈しなかった。勇武のみならず,和歌もよくしたことで知られる。

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