寺蔵の槙尾寺縁起(正平一五年写。国指定重要文化財。「大日本仏教全書」所収「巻尾山縁起証文等之事」は、寛文二年写本を底本とする縁起の刊本)によれば欽明天皇の御願により、播磨国の人行満が開創したという。次いで宝亀二年(七七一)摂津国の人法海が移住し、九旬安居を勤めたところ千手観音が客僧として来る奇瑞があり、法海は千手観音の形象を造立し安置して仏名大会を催し、人々から随喜して仰がれたという。次いで役小角は法華経一部八巻二十八品を書写し、品々を分けて葛城の秘所に安置したが、当山にもそのうちの一品不軽品が奉納されたという。また慶雲三年(七〇六)行基が当寺に登山し、懺悔秘法率都婆を建立、行基が使用していた方円三角の輪形が寺宝として残っていたという。一方「日本霊異記」には、聖武天皇の時代として和泉国
次いで延暦年中(七八二―八〇六)三論宗の僧勤操が、人人に勧進して当寺で法華八講を修し、延暦一二年、空海が当寺において勤操から受戒して出家したと縁起は伝える。空海が当寺において勤操から受戒したとの説は、「御遺告」「大師御行状集記」などにも所見する(年次はそれぞれ異なる)。ただし「朝野群載」などより良質の史料には空海出家の場所を明記していないし、空海が勤操から受戒したことについては疑問視する意見も強い。しかし青年期の空海が四国の霊山などで修行していることを考えれば、出家前後の空海が当寺に足跡をとどめたことを一概に否定し去ることもできないであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪府和泉(いずみ)市槇尾山(まきおさん)町にある天台宗の寺。山号は槇尾山。槇尾寺、観音(かんのん)堂、仙薬院とも称される。本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)。西国(さいごく)三十三所第4番札所。寺宝の「槇尾山大縁起」(国重要文化財)によれば、欽明(きんめい)天皇の勅により行満上人(ぎょうまんしょうにん)創建になる真言(しんごん)宗の古寺で、空海は僧正勤操(ごんそう)を戒師としてこの寺で得度したという。以後朝廷の保護厚く、916年(延喜16)には定額(じょうがく)寺の宣旨(せんじ)が下され三綱(さんごう)が置かれた。最盛時は800の坊舎、寺領3700石を有したというが、南北朝内乱で南朝方にくみし、以後衰退した。織田信長の兵火で焼失、のち豊臣(とよとみ)秀吉により、さらに江戸初期に徳川氏の援助によって堂舎が再興され、寛永(かんえい)年間(1624~44)以前に天台宗に改宗した。境内の経塚遺跡から、平安から室町期にかけての経筒などが出土している。
[中山清田]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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