日本のキリスト教(読み)にほんのキリストきょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日本のキリスト教」の意味・わかりやすい解説

日本のキリスト教
にほんのキリストきょう

キリスト教は,天文 18 (1549) 年イエズス会士 F.ザビエルらによって日本へ伝来し,急速に上下階層に普及した。しかし為政者の利害宣教師側の不手ぎわなどで,天正 15 (87) 年バテレン追放令に始る弾圧期を迎え,殉教者を出しながらも進展をみたが,弾圧は強まり,1630年代にはキリスト教は表面上消滅した。嘉永7 (1854) 年日米和親条約で再び宣教師が渡来,慶応1 (65) 年に長崎で潜伏キリシタンが発見された。フランスに支持されたパリ外国宣教会を中心とするカトリックは,彼らを中核布教に努め,91年には教階制も確立したが,教勢は伸びず,女子修道会の慈善事業,二,三の学校の成功以外にはほとんどみるべきものはなかった。ギリシア正教も文久1 (61) 年ロシアからニコライ司祭 (のち主教) が来日,「日本ハリストス正教会」をたてて,日露戦争,ロシア革命などの困難を克服してきたが,対外的にはほとんど影響を及ぼしていない。一方プロテスタントでは,安政6 (59) 年 N.ブラウン (改革派) ,J.C.ヘボン (長老派) ,J.リギンズ (聖公会) らが公に宣教師として来日,宣教が開始された。反政府的な武士出身青年らを中心に教勢は順調に発展,初めは超教派の自立教会を夢みて「横浜公会」など教派をこえたキリスト公会を設立したが,信条や宣教母体との関係などから,やがて一致教会 (カルバン) ,組合教会 (会衆派) ,聖公会 (アングリカン) などに分化して発展した。教派教会に反対して内村鑑三らの無教会主義も特に知識人の間に大きな影響を与え,大正期にかけて片山潜らのキリスト教社会主義も盛んとなり,のちの労働・農民運動などの母体となった。教育勅語不敬事件,神社不参拝問題など天皇絶対制を頂点とする国粋主義との摩擦も時を追って深刻化し,一部に日本的キリスト教も唱えられた。八紘一宇の「聖戦」の激化とともに新旧両教会とも消極的ながら国策を支持,1941年宗教団体法によって新教はほとんど全教派一丸の日本基督教団へ,カトリックは天主公教団へ改組された。 45年第2次世界大戦での敗戦とともに一切の国家統制は撤廃され,占領軍の後援と海外教会の巨大な財政援助で,キリスト教全般は順調に復興発展したが,教勢は期待されたほど伸びず,1960年代後半の大学紛争と軌を一にして,指導部の戦争加担責任の追及など「体制」への批判,造反が多くの教会で起り混乱を呈した。また右傾化する社会への警戒も深まり,靖国神社国営化反対,紀元節復活反対,津地鎮祭合憲判決反対など,教会と国家の問題に一部の信徒が超教派で活躍している。そのほかにも,韓国,フィリピンなどの人権擁護運動などに深くかかわったり,国際的ボランティア活動などに積極的に取組んだりしている。

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