日本橋魚市場(読み)にほんばしうおいちば

改訂新版 世界大百科事典 「日本橋魚市場」の意味・わかりやすい解説

日本橋魚市場 (にほんばしうおいちば)

近世初期から昭和期まで日本橋で開かれてきた魚市場。1590年(天正18)徳川家康は江戸に入府したが,その際,摂州西成郡佃村の名主森孫右衛門が佃・大和田両村の漁民30余名を率いて江戸に移住し,日本橋本小田原町の河岸地を拝領,江戸近辺河海の漁業に従事する許可を受けた。その漁獲物の一部は幕府膳所に供し(当初もっぱら白魚を納めたという),残余市街に販売していた。同業者が増加して魚類販売も盛大になったので,慶長年間(1596-1615)森九右衛門(孫右衛門の長男)らが幕府に納入した残余の魚類を引き受けて販売する便益のために,売場を日本橋本小田原町に開設した。これが日本橋魚市場の起源である。江戸の発展に伴い遠近より運送されてくる魚荷が増大し,日本橋魚市場は拡張された。そして江戸時代初期のうちに四組問屋と称する4組の魚問屋の組合(本小田原町組,本船町組,本船町横店組,安針町組)が形成されるようになった。なお本小田原町に魚会所を設立し,日々の幕府膳所の納魚をつかさどっていたが,それを取り扱っていたのは本小田原町組であった。享保年間(1716-36)日本橋組魚問屋の人員は347名,1887年の問屋は341名,仲買は141名であった。

 一方,江戸のいっそうの発展によって,日本橋組以外の他の魚問屋も成立するようになった。1674年(延宝2)日本橋魚問屋から分離して本材木町に新肴場ができ,そのあと本芝と芝金杉の2組合が加わり,安政年間(1854-60)には深川魚問屋も加わって8組合となった。1887年ごろの東京府下の魚市場を列挙すると,日本橋,四日市小船町,新肴場,本芝,芝金杉,千住仲,深川,大森羽田,不入斗(いりやまず),築地の12組,それに浜町魚鳥市場の13であった。しかし取扱金額からみて日本橋魚市場の比重は圧倒的であり,これは基本的には関東大震災による潰滅と,中央卸売市場への再編にいたるまで続いたとみられる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日本橋魚市場」の解説

日本橋魚市場
にほんばしうおいちば

近世以降の江戸日本橋の魚市場。天正期に摂津の漁民が移住して漁業に従事し,慶長頃に日本橋本小田原町に魚市場を開設したのが始まりという。以後魚問屋が集住し,本船町組・本小田原町組・本船町横店組・按針町組の四組(しくみ)肴問屋を結成。幕府への納魚は本小田原町組が担当した。1674年(延宝2)本材木町に新設された魚市場は新場(しんば)とよばれ,幕府への納魚も本小田原町との輪番となる。魚市場は幕府への大量安価な納魚に苦しみ,1792年(寛政4)の魚納屋役所設置後は,役人の強引な買付けに種々の手段で対抗した。明治以後も日本橋魚市場の魚類集散機能はかわらず,1923年(大正12)築地に開設された中央卸売市場に移転。

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世界大百科事典(旧版)内の日本橋魚市場の言及

【魚市】より

…ただ応長1年(1311)付の淀魚市次郎兵衛尉宛為替状(厳島神社反古裏紙背文書)に,淀魚市の商人が洛中錦小路で替銭をするよう依頼されていることからみて,その成立は鎌倉時代にまでさかのぼるものかもしれない。一般には江戸日本橋魚市場,大坂雑喉場(ざこば)の魚市が有名である。前者の成立については諸説ありつまびらかでないが,1590年(天正18)の徳川家康の入城後,三河人にこの辺で魚の専売を許したのにはじまるとか,同じころ摂津西成村,大和田村の漁夫30余名がここに来住し,幕府膳所用魚の余分を売りさばいたのにはじまるとかいわれる。…

※「日本橋魚市場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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