日本歴史地名大系 「日野市」の解説 日野市ひのし 面積:二七・五三平方キロ東京都のほぼ中央に位置し、北と東は多摩川を境に昭島(あきしま)・立川・国立(くにたち)・府中の各市に接し、西は八王子市、南は同市と多摩市に接する。市域の南は多摩丘陵、北西部に日野台地があり、多摩川・浅(あさ)川がそれぞれ西から東へ蛇行し、その合流点に沖積平野が広がっている。市域の北東をJR中央線、南を京王電鉄京王線、中央部を北から南へ多摩都市モノレール(平成一二年開業)が通り、一二の駅がある。また北東部に国道二〇号(甲州街道)、その西側を中央高速道路が走っている。古くは水田耕作を中心とした農村地帯であったが、第二次世界大戦後は首都圏のベッドタウンとして住宅地が広がり、団地も多い。平山台(ひらやまだい)には工業団地があり、旭ヶ丘(あさひがおか)には都立科学技術大学がある。〔原始〕旧石器時代は七ッ塚(ななつづか)遺跡で礫群・ナイフ形石器を含むブロックが確認される。縄文時代早期・前期は日野台地上の神明上(しんめいうえ)遺跡南縁で住居跡が調査されている。中期は浅川の河岸段丘上の平山(ひらやま)遺跡・吹上(ふきあげ)遺跡、沖積地の神明上北(しんめいうえきた)遺跡でも検出され、後期・晩期は沖積地の南広間地(みなみひろまち)遺跡・落川(おちかわ)遺跡で確認される。弥生時代終末になると神明上遺跡の東側縁辺に住居が確認され、古墳時代前期・中期は平山遺跡・吹上遺跡で集落が調査されている。古墳は多摩川に面する七ッ塚遺跡、浅川に面する平山・吹上両遺跡、大栗(おおぐり)川に面する万蔵院台(まんぞういんだい)遺跡に分布し、横穴墓は坂西(さかにし)横穴墓群のほか、神明上・吹上両遺跡の南側斜面で検出される。古墳時代後期以降の遺跡は市域全体に分布する。〔中世〕古代の官牧小野(おの)牧の西に接して、平安時代後期に成立したとされる船木田(ふなきた)庄が市域南部に広がっていた(日野市史)。同庄は皇嘉門院領・摂関家領を経て、室町時代初期に京都東福寺に寄進された。在地では鎌倉時代初期まで小野姓横山氏が活躍したが、建保元年(一二一三)和田義盛の乱に荷担して滅亡。多摩川に沿って進出していた日奉姓一族の西・平山・土淵・田村・立河ら諸氏の活躍が著しい(「日奉氏小川系図写」塩田家旧蔵文書)。平山季重は一ノ谷合戦において熊谷直実と先陣争いをしたと伝え、源頼朝の旧臣で、建久元年(一一九〇)一一月七日、頼朝上洛時には平山小太郎・西小大夫らとともに随兵を務めている(吾妻鏡)。建治元年(一二七五)五月の六条八幡宮造営注文(国立歴史民俗博物館蔵)によれば、鎌倉幕府御家人の西権三郎・土淵矢三入道・田村馬允らに造営銭が割当てられている。鎌倉中期には武蔵国高麗(こま)郡出自の高幡高麗氏が得恒(とくつね)郷・船木田庄木切沢(ききりざわ)村に進出。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日野市」の意味・わかりやすい解説 日野〔市〕ひの 東京都西部,多摩川の南岸にある市。 1958年日野町と七生 (ななお) 村が合体,63年市制。地名には諸説があり,武蔵七党の1つ,西党の日野 (日奉〈ひまつり〉) 宗頼が居住していたことによるなどといわれる。江戸時代までは甲州街道の宿場町。昭和期に入ってからは武蔵野台地に自動車,電気機器,フィルム,時計,乳業などの製造工場が立地,都内有数の内陸工業都市となっている。第2次世界大戦後は多摩平団地など大規模な宅地化が進められた。浅川流域では野菜などの栽培が行われる。百草園,多摩動物公園,高幡不動尊などがあり,市域南部は多摩丘陵都立自然公園に属する。 JR中央線,京王電鉄京王線,動物園線,国道 20号線が通る。面積 27.55km2。人口 19万435(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by