日野村(読み)ひのむら

日本歴史地名大系 「日野村」の解説

日野村
ひのむら

[現在地名]伏見区日野〈岡西おかにし町・奥出おくで北川頬きたかわづら北山きたやま慈悲じひ町・田頬たづら町・田中たなか町・谷田たにだ町・谷寺たにでら町・西川頬にしかわづら西大道にしだいどう町・西風呂にしふろ町・野色のいろ町・畑出はたで町・はやし馬場出ばんばで町・不動構ふどうこう町・船尾ふなお南山みなみやま

笠取かさとり山地を背景にした丘陵地帯に立地。北は醍醐だいご村、東・南・西は現宇治うじ市、北西は石田いしだ村と接する。村の中央を炭山すみやま(現宇治市)と石田を結ぶ下馬しもうま街道、醍醐村に通じる谷寺たにでら道が通り、西方には日野ひの川、東方には相場あいば川が流れる。

類聚国史」には延暦一四年(七九五)三月一六日に「猟於日野」とあるのをはじめ、同年八月二八日、同一五年三月二日、同年一〇月九日にも同文の記載をみ、日野の地が古くに天皇・公家の遊猟地とされていたことが知られる。


日野村
ひのむら

[現在地名]長坂町日野・富岡とみおか

南へ流下する大深沢おおふかさわ川が釜無川に合流する地点付近の左岸一帯に位置する。八ヶ岳南麓の甲州分のうち唯一なだらかな地形である七里岩しちりいわ台地に上日野かみびのと下日野の集落があり、東は長坂下条ながさかしもじよう村。甲州道中だいはら宿(現白州町)からの同道はら路は、下日野の釜無川にかかる花水はなみず橋を渡り、花水坂を上って台上に出、韮崎宿に至る。天正一〇年(一五八二)八月一一日の徳川家印判状写(社記)に「飛野」とみえ、同所二〇貫文などが内藤又右衛門ら御岳衆に宛行われている。同一七年一一月二三日の伊奈忠次知行書立写(朝野旧聞藁)によれば、比野ひの郷内四〇俵が五味太郎左衛門に宛行われた。同二〇年には身延みのぶ山岸坊支配の久遠くおん寺末寺、日野の見峯けんぽう(見法)寺の屋敷地二四五坪の坪銭が免除されている(「加藤光政身延山末寺屋敷免許状」久遠寺文書)


日野村
ひのむら

[現在地名]岐阜市日野・日野ひの山下やました日野鈴虫ひのすずむし日野金王ひのきんのう日野菊川ひのきくがわ日野舟付ひのふなつき日野大松ひのおおまつ日野若草ひのわかくさ日野山之神ひのやまのこ日野日向ひのひなた日野桂木ひのかつらぎ日野七反田ひのななたんだ日野曾我野ひのそがの日野香楽ひのこうらく日野榎ひのえのき

北は長良川、西は金華きんか山の東麓・東は舟伏ふなぶせ山に囲まれ、長良川岸と南部に東西に長い平地をもつ。集落は山間の本郷のほか、長良川右岸に中川原なかがわら、左岸に堂後どうしろなどがある。長良川には日野河岸が置かれ、渡船場でもあった。中世には一帯に日野郷が成立。慶長郷帳に村名がみえ、高一千二〇四石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では高五六七石余。石高の大幅な減少の理由はつまびらかではない。


日野村
ひのむら

[現在地名]荒川村日野

荒川の上流右岸に位置し、西は谷津やつ川を境に白久しろく村、東は安谷あんや川を境に上田野かみたの村。南に熊倉くまくら山・天目てんもく山が連なる。秩父甲州往還が荒川沿いに横断する。地名の初出は元亨四年(一三二四)一〇月日の秩父社造営料木注文案(秩父神社文書)に「日野村国光名分」とみえ、天井裏板一〇枚(各長さ一丈二尺・幅一尺一寸・厚さ一寸二分)・決込板一五枚(各長さ六尺・幅一尺二寸・厚さ二寸)などが秩父社(現秩父市)の造営料木として当村国光名に課せられていた。近世初めは幕府領、田園簿では高二四七石余・此永四九貫四〇五文とある。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同年の年貢割付状(新井家文書)によると高二一三石余、反別は田一町九反余・畑七二町三反余・屋敷三町余。


日野村
ひのむら

[現在地名]河内長野市日野・南花台なんかだい五丁目

北から東にかけて高向たこう村に接し、石川に沿った山間の小盆地に集落がある。集落の東を滝畑たきのはた村を経て和泉山脈を越える道が通る。元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)によると、観心かんしん寺領高田たかだ庄の庄地の所在地に「比野地」があった。広島市三滝みたき寺所蔵阿弥陀如来像の仁平四年(一一五四)一一月三日付銘(胎内背面)に「観音寺諸檀越等日本国河内国錦部郡日野村道俗男女等」とみえ、この阿弥陀像が当村の観音かんのん寺に寄進されたものであることが知られる。貞和五年(一三四九)八月日付淡輪助重軍忠状(淡輪文書)によると、同年四月二二日には「日野高岡」で合戦があった。


日野村
ひのむら

[現在地名]豊田町大字日野

豊田平野の南東部に位置し、北は稲光いなみつ村、東は殿敷とのしき村のいち、南は日野ひの川を境に萩原はぎわら村・高山たかやま村に、西は木屋こや川を境に手洗たらい村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属する。

西市町にしいちまち紅粉屋家の正保四年(一六四七)の文書に日野とある。「地下上申」は「往古日野何某と申仁此所ニ居住仕たる由」と地名の由来を記し、総高六七八石余、うち蔵入の田方が四九六石余、畠方二五石余、給領地は四人の入組支配で田方一五〇石余、畠方六石余。家数は総計四〇、人口一七〇人と記す。


日野村
ひのむら

[現在地名]和歌山市日野

海部あま郡に属し、磯脇いそわき浦の北、葛城(和泉)山中に位置する。村内を日野川が流れ、下って加太谷かだだに川となる。「続風土記」は「昔時日野左衛門藤原光福といふ人あり、此辺を領して司庁の柴薪をこらしむ、其杣人居とゝまりて終に一村をなすとなり、仍て領主の姓を以て日野村と号し、光福の菩提所を建て光福寺と号せりとそ」と記す。日野の名は、嘉吉元年(一四四一)八月一日付の賀太本庄年貢等注進状(向井家文書)にみえる。


日野村
ひのむら

[現在地名]佐世保市日野町・星和台町せいわだいまち長坂町ながさかちよう

川下かわしも村の南、ほううら村の南西に位置し、相浦あいのうら川の河口部にあたる。南西部は九十九島くじゆうくしま湾に臨んで牽牛けんぎゆう崎がある。江戸時代は相神浦村のうちで、正保国絵図に「日野湊悪」とある。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では相神浦村のうち新田枝村として日野村とみえ、高二六五石余。


日野村
ひのむら

[現在地名]津奈木町津奈木

津奈木川上流部にある小盆地の東部にある。東は乱橋みだればし村、北は野中のなか村、西は津奈木(高無礼)村に接する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「津奈木村内日野村」とあり、地侍二人がみえ、同一八年の津奈木村小村切高物成人畜御帳(同文書)には高一二八石一斗余、田数七町四反七畝余・畠数一町五反五畝、真綿九匁・茶一二〇匁、女一一・男二三、うち地侍二・郡筒二、馬三が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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