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日頂 ニッチョウ

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デジタル大辞泉の解説

にっちょう〔ニツチヤウ〕【日頂】

[1252~1317]鎌倉中期の日蓮宗の僧。駿河の人。通称、伊予阿闍梨(あじゃり)。六老僧の一人。日蓮の没後、下総(しもうさ)真間の弘法寺(ぐほうじ)を管し、のち養父の日常と離別し故郷に退いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日頂 にっちょう

1252-1317 鎌倉時代の僧。
建長4年生まれ。日蓮門下六老僧のひとり。日蓮の佐渡配流,甲斐(かい)身延山隠棲(いんせい)にしたがい,また下総(しもうさ)弘法(ぐほう)寺(千葉県)を拠点に布教につとめた。のち養父の富木(とき)日常と不和になり,郷里の駿河(するが)(静岡県)に退隠した。文保(ぶんぽ)元年3月8日死去。66歳。通称は伊予阿闍梨(いよあじゃり)。号は伊予房。

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朝日日本歴史人物事典の解説

日頂

没年:文保1.3.8(1317.4.19)
生年:建長4(1252)
鎌倉後期の日蓮宗の僧。伊与阿闍梨という。日蓮の有力檀越(施主)富木常忍の養子。日蓮に帰依した常忍に従って日蓮の門に入る。文永8(1271)年の日蓮佐渡流罪の際には同行,給仕した。日蓮はその学識,能力を高く評価し,入滅に当たって六老僧のひとりに加えた。日蓮没後,下総(千葉県)の真間弘法寺へ赴き,教えを広めるかたわら鎌倉幕府に申し状を提出し,他宗との公の場での法論の実現と法華信仰への帰服を求めている。のち父常忍と対立,下総を離れて駿河(静岡県)の日興を訪ね,大石寺そばの重須本門寺の学頭となった。<参考文献>立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上

(佐藤弘夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日頂
にっちょう
(1252―1317)

鎌倉時代の日蓮(にちれん)宗の僧。日蓮が滅後を託した六老僧の1人。日蓮の有力な信徒富木常忍(ときじょうにん)の義子。日蓮滅後、真間山弘法寺(ままさんぐほうじ)に住し、下総(しもうさ)(千葉県北部)の信徒の教導と教線の拡張にあたった。1284年(弘安7)鎌倉での宗論のため日蓮三回忌に遅参して常忍に叱責(しっせき)されたといわれ、富木邸の傍らのイチョウから許しを請うたという「泣き銀杏(いちょう)」の伝説がある。常忍との間に間隙(かんげき)を生じた日頂は、1302年(乾元1)生国である駿河(するが)国重須(おもす)(静岡県富士宮市)に帰り、その地で没したと伝えられる。[渡邊宝陽]

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