鎌倉末期、中国から渡来した臨済(りんざい)宗の僧。姓は胡(こ)氏。台州(浙江(せっこう)省)の人。頑極行弥(がんごくぎょうみ)の法を嗣(つ)ぎ、1299年(正安1)西礀子曇(せいけんしどん)らとともに来朝。執権北条貞時は元(げん)の游偵(ゆうてい)(回し者)と疑い、伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に捕らえた。のち許されて建長寺、円覚寺(えんがくじ)、浄智寺(じょうちじ)を歴住し、1313年(正和2)に後宇多(ごうだ)上皇の勅によって南禅寺3世となった。朱子(しゅし)(朱熹(しゅき))の新注を伝え、弟子の接化(せっけ)に偈頌(げじゅ)を用いて、門下に五山文学者を輩出し、禅林文学に大きな影響を与えた。文保(ぶんぽう)元年9月24日示寂。元の成宗(せいそう)(在位1294~1307)より妙慈広済(みょうじこうさい)大師、後宇多上皇より一山国師の号を賜う。『一山国師語録』2巻などがあり、弟子に石梁仁恭(せきりょうにんきょう)(1266―1335)、聞渓良聡(もんけいりょうそう)(?―1372)、雪村友梅(せっそんゆうばい)、東林友丘(とうりんゆうきゅう)(?―1369)などがいる。
[中尾良信 2017年1月19日]
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鎌倉後期の禅僧。宋の台州の人。はじめ律,天台を学んだが,のち禅に帰し,蔵叟善珍,頑極行弥(がんぎよくぎようみ)に参じ,頑極の法をついだ。元の成宗は文永・弘安の日本遠征に失敗すると,仏法をもって平和的に服属させようと企図し,一山を正使として日本に派遣した。一山は1299年(正安1)博多に到着したが,鎌倉幕府はこれを怪しみ,一山ら使節一行を伊豆の修禅寺に幽閉した。しかし,一山の本国における名声を聞くや,彼を許して建長寺に入寺させ,ついで円覚寺に住せしめ,執権北条貞時は深く帰依した。後宇多上皇も一山の名声を知り,強く招請したので,1313年(正和2)南禅寺3世として入寺,上皇のために禅要を説いたが,17年(文保1)南禅寺で寂した。一山は禅学のみならず,儒学,詩文に長じ,豊かな教養の持主であったから,朱子学移入史上に重要な位置を占め,また五山文学の発展に寄与した。一山派からは,雪村友梅,大清宗渭など五山文学者が輩出した。
執筆者:藤岡 大拙
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1247~1317.10.24
鎌倉後期に中国の元から来朝した臨済宗の僧。法諱は一寧,一山は道号。台州臨海県の人。1299年(正安元)元の成宗の国書をもって来日。一時は伊豆国修禅寺に幽閉されたが,執権北条貞時はその徳識を聞いて建長寺の住持に迎え,のち円覚寺・南禅寺の住持ともなる。晩年は後宇多天皇や六条有房らの帰依をうけた。学識は天台教学をはじめ,朱子学・書道・文学の領域に及び,日本の中世文化史上に大きな足跡を残した。弟子に夢窓疎石(そせき)・虎関師錬(こかんしれん)などがいる。
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