下総台地の最西部、江戸川支流
「真間山略縁起」によると行基の創建という。のちに空海が七堂を構えて真間山弘法寺を号し、さらにその後天台宗に転じたとする。この縁起の真偽はともかくとして、当地は古代の下総国府の中心地に近く(寺地の北には字府中がある)、またかつては近くに六所神社が祀られていて(明治初期に須和田村に移転)、古代から寺院が建立されていた可能性は高く、この場合国府と密接な関連をもつ寺院であったとする説もある。天台宗から日蓮宗への転宗の経緯について略縁起は、建治元年(一二七五)中山法華経寺の開祖日常(富木常忍)が当寺住持了性と問答してこれを降し、日蓮が六老僧の一人日頂を初代貫首に置いたことに始まると伝える。日蓮宗の宗門の間では、日頂はその後日興に師事したことで日常に破門され当寺を出たとされるが(真間山血脈事)、その真実のところは不明。日常は永仁七年(一二九九)三月四日の置文(中山法華経寺文書)で「弘法寺」を兵部阿闍梨(日陽)に申付け、日常の死後も生前同様に当寺と法華寺(本妙寺とともに法華経寺の前身)の両寺で僧徒・講衆が講会などを勤めるように申付けている。
正和三年(一三一四)四月二六日法華経寺二世貫首日高は置文(中山法華経寺文書)で「弘法寺本尊聖教」を弁公に申付ける一方、日樹も前日に起請文(写、弘法寺文書。以下断りのない限り同文書)を書き、「真間御堂」を申受けたことを述べており、当寺を真間御堂ともよんでいたようである。
山号は千手山、高野山真言宗。本尊千手観音。奈良時代に報恩大師が創建したという寺伝をもつ備前四八ヵ寺の一つ。
弘長二年(一二六二)には衆徒等契状が作成され、院主寛円大徳以下の僧二五名が署判しており、文永元年(一二六四)の契状には寛円以下二四名のほか「久住者」として三〇名の名がみえる。正安二年(一三〇〇)一一月本堂供養が行われたが、講師・呪願師は近江比叡山東塔の僧で(本堂供養請文)、当時は台密系寺院であったとみられる。
中里集落の北端、麓の村を一望できる古館跡にある。薄市山と号し、日蓮宗。本尊十界曼荼羅。もと弘前
寺伝によると、慶長三年(一五九八)弘前法立寺七世実成院日光が
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
岡山県瀬戸内市牛窓(うしまど)町千手(せんず)にある寺。高野山真言(こうやさんしんごん)宗に属する。山号は千手山(せんじゅさん)。本尊は千手観音(かんのん)。天智(てんじ)天皇の勅願により開創。天平(てんぴょう)年間(729~749)報恩大師が孝謙(こうけん)女帝の病気平癒を祈願して効験あり、その賞によって興法寺を再興。のち弘法大師(空海)が807年(大同2)当山に方三丈の堂を建立し、千手観音を造像安置してから寺号も千手山弘法寺と称するようになった。江戸中期には61石を領し、山上に多くの堂塔があったが、1967年(昭和42)諸堂を焼失した。76年に一山の本坊遍明院を落成。5月5日にお練り供養(くよう)が盛大に行われたが、火災以後は中絶。寺宝も多く、木造彩色菊牡丹透華鬘(きくぼたんすかしけまん)、遍明院には木造五智如来(ごちにょらい)坐像(5躯(く))、絹本着色『阿弥陀二十五菩薩来迎(あみだにじゅうごぼさつらいごう)図』『仏涅槃(ぶつねはん)図』、藍韋肩白腹巻(あいかわかたじろはらまき)(伝足利尊氏(あしかがたかうじ)奉納)、大薙刀(なぎなた)(銘「盛光」)、東寿院には快慶作の阿弥陀如来立像(以上すべて国指定重要文化財)などがある。
[野村全宏]
千葉県市川市真間(まま)にある日蓮(にちれん)宗の本山。山号は真間山。『万葉集』の歌にみえる手児奈(てこな)の霊を慰めるために、737年(天平9)行基(ぎょうき)が開創したと伝える。日蓮の下総(しもうさ)における外護者であった富木(とき)入道常忍(つねのぶ)(日常)は1277年(建治3)関東天台の学匠了性房信尊(りょうしょうぼうしんそん)らと法論を行って論破、逐電せしめ、その子日頂(にっちょう)を置き日蓮宗に改宗した。日頂は日蓮の弟子六老僧の一人で、本寺を中心に下総一帯の教化にあたった。中世には法華経寺(ほけきょうじ)の前身にあたる法華寺・本妙寺と一体のものであったという。本尊は日頂作の大曼荼羅釈迦如来(だいまんだらしゃかにょらい)像である。なお、同寺の近くに手児奈霊堂がある。
[田村晃祐]
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