弘法寺(読み)グホウジ

デジタル大辞泉 「弘法寺」の意味・読み・例文・類語

ぐほう‐じ〔グホフ‐〕【弘法寺】

千葉県市川市真間にある日蓮宗の寺。山号は真間山。天平9年(737)行基の開創と伝える。13世紀中ごろ、日頂が入って改宗。

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精選版 日本国語大辞典 「弘法寺」の意味・読み・例文・類語

ぐほう‐じグホフ‥【弘法寺】

  1. 千葉県市川市真間にある日蓮宗の寺。山号は真間山。弘法大師の遺跡で、はじめ真言宗。建治年間(一二七五‐七八)改宗、日頂が開山となる。こうぼうじ。

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日本歴史地名大系 「弘法寺」の解説

弘法寺
ぐぼうじ

[現在地名]市川市真間四丁目

下総台地の最西部、江戸川支流真間ママ川の北方に位置し、南には同川が開析する低湿地と市川砂洲が開ける。真間山と号し、日蓮宗。本尊は大曼荼羅・釈迦如来

〔創建の経緯〕

「真間山略縁起」によると行基の創建という。のちに空海が七堂を構えて真間山弘法寺を号し、さらにその後天台宗に転じたとする。この縁起の真偽はともかくとして、当地は古代の下総国府の中心地に近く(寺地の北には字府中がある)、またかつては近くに六所神社が祀られていて(明治初期に須和田村に移転)、古代から寺院が建立されていた可能性は高く、この場合国府と密接な関連をもつ寺院であったとする説もある。天台宗から日蓮宗への転宗の経緯について略縁起は、建治元年(一二七五)中山法華経寺の開祖日常(富木常忍)が当寺住持了性と問答してこれを降し、日蓮が六老僧の一人日頂を初代貫首に置いたことに始まると伝える。日蓮宗の宗門の間では、日頂はその後日興に師事したことで日常に破門され当寺を出たとされるが(真間山血脈事)、その真実のところは不明。日常は永仁七年(一二九九)三月四日の置文(中山法華経寺文書)で「弘法寺」を兵部阿闍梨(日陽)に申付け、日常の死後も生前同様に当寺と法華寺(本妙寺とともに法華経寺の前身)の両寺で僧徒・講衆が講会などを勤めるように申付けている。

正和三年(一三一四)四月二六日法華経寺二世貫首日高は置文(中山法華経寺文書)で「弘法寺本尊聖教」を弁公に申付ける一方、日樹も前日に起請文(写、弘法寺文書。以下断りのない限り同文書)を書き、「真間御堂」を申受けたことを述べており、当寺を真間御堂ともよんでいたようである。


弘法寺
こうぼうじ

[現在地名]牛窓町千手

山号は千手山、高野山真言宗。本尊千手観音。奈良時代に報恩大師が創建したという寺伝をもつ備前四八ヵ寺の一つ。千手せんず寺とも通称される。当寺一帯は中世に邑久郡大部分を占めたと思われる豊原とよはら庄に属しており、当寺はこの庄の中心寺院であった。建長三年(一二五一)一一月日の豊原庄政所下文(寺蔵文書、以下同)の中に、「当寺者報恩大師之建立地、観音薩之霊験所也、於当御庄之御願寺、(中略)因茲彼検断使等、於当院内者不可入者也」とみえる。すでに一三世紀中頃、報恩大師創建の所伝が当寺において成立し、観音の霊場をうたい、皇室の御願寺に指定され、検断使等の公使不入権を確保していたことがわかる。

弘長二年(一二六二)には衆徒等契状が作成され、院主寛円大徳以下の僧二五名が署判しており、文永元年(一二六四)の契状には寛円以下二四名のほか「久住者」として三〇名の名がみえる。正安二年(一三〇〇)一一月本堂供養が行われたが、講師・呪願師は近江比叡山東塔の僧で(本堂供養請文)、当時は台密系寺院であったとみられる。


弘法寺
こうぼうじ

[現在地名]萩市大字土原

松本まつもと川に架かる萩橋の西にある。真言宗御室派。寄舟山と号し、本尊は弘法大師。

開創について寺伝と「注進案」は大同元年(八〇六)、「萩古実未定之覚」「寺社旧記」「山口県風土誌」は大同二年、「八江萩名所図画」は大同年間とし、弘法大師が唐から帰朝の際当地に船が漂着し創建したとする。山号と寺名はこの漂着伝承に由来するという。中興開山隆澄は慶長二年(一五九七)に没したというから(注進案)少なくとも築城以前から寺があったことは確かであろう。


弘法寺
ぐぼうじ

[現在地名]中里町中里 亀山

中里集落の北端、麓の村を一望できる古館跡にある。薄市山と号し、日蓮宗。本尊十界曼荼羅。もと弘前法立ほうりゆう寺末。

寺伝によると、慶長三年(一五九八)弘前法立寺七世実成院日光が薄市うすいち村に一寺を建立、薄市山実成寺と名付け、延宝元年(一六七三)法立寺一三世妙静院日禅(弘法寺四世)が現在地に移し、薄市山弘法寺と号した(中里町誌)。中里村の加藤家永代帳(加藤八州夫氏蔵)に「貞享元子年建 一、弘法寺 延宝元丑年薄市村より当村引越申候宗旨法花」とある。国日記元禄一二年(一六九九)一〇月九日条に「薄市村之寺根源法立寺七代目実成院日光申僧慶長之頃弘前よ薄市村隠居仕其旧跡を実成寺名付ケ草庵之如小寺年久敷有之之由申伝候(中略)右之旧跡を先住妙静院日祥申代ニ薄市村よ中里村引移建立仕候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「弘法寺」の意味・わかりやすい解説

弘法寺(岡山県)
こうぼうじ

岡山県瀬戸内市牛窓(うしまど)町千手(せんず)にある寺。高野山真言(こうやさんしんごん)宗に属する。山号は千手山(せんじゅさん)。本尊は千手観音(かんのん)。天智(てんじ)天皇の勅願により開創。天平(てんぴょう)年間(729~749)報恩大師が孝謙(こうけん)女帝の病気平癒を祈願して効験あり、その賞によって興法寺を再興。のち弘法大師(空海)が807年(大同2)当山に方三丈の堂を建立し、千手観音を造像安置してから寺号も千手山弘法寺と称するようになった。江戸中期には61石を領し、山上に多くの堂塔があったが、1967年(昭和42)諸堂を焼失した。76年に一山の本坊遍明院を落成。5月5日にお練り供養(くよう)が盛大に行われたが、火災以後は中絶。寺宝も多く、木造彩色菊牡丹透華鬘(きくぼたんすかしけまん)、遍明院には木造五智如来(ごちにょらい)坐像(5躯(く))、絹本着色『阿弥陀二十五菩薩来迎(あみだにじゅうごぼさつらいごう)図』『仏涅槃(ぶつねはん)図』、藍韋肩白腹巻(あいかわかたじろはらまき)(伝足利尊氏(あしかがたかうじ)奉納)、大薙刀(なぎなた)(銘「盛光」)、東寿院には快慶作の阿弥陀如来立像(以上すべて国指定重要文化財)などがある。

[野村全宏]


弘法寺(千葉県)
ぐほうじ

千葉県市川市真間(まま)にある日蓮(にちれん)宗の本山。山号は真間山。『万葉集』の歌にみえる手児奈(てこな)の霊を慰めるために、737年(天平9)行基(ぎょうき)が開創したと伝える。日蓮の下総(しもうさ)における外護者であった富木(とき)入道常忍(つねのぶ)(日常)は1277年(建治3)関東天台の学匠了性房信尊(りょうしょうぼうしんそん)らと法論を行って論破、逐電せしめ、その子日頂(にっちょう)を置き日蓮宗に改宗した。日頂は日蓮の弟子六老僧の一人で、本寺を中心に下総一帯の教化にあたった。中世には法華経寺(ほけきょうじ)の前身にあたる法華寺・本妙寺と一体のものであったという。本尊は日頂作の大曼荼羅釈迦如来(だいまんだらしゃかにょらい)像である。なお、同寺の近くに手児奈霊堂がある。

[田村晃祐]

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