明見村(読み)みようけんむら

日本歴史地名大系 「明見村」の解説

明見村
みようけんむら

[現在地名]額田町明見

村域中央部を東北より西南の方向におと川が流れ、男川右岸沿いに作手つくで道が通り、集落は街道沿いに立地。東は亀穴かめあな村・中金なかがね村、西は平針ひらばり村・淡淵あわぶち村、南は滝尻たきじり村・栃原とちはら村、北は木下きぐたし村と各々山で接する。中世、男川おとがわ宮崎みやざき郷に属したという。本宮ほんぐう山北側の宮崎郷は天正一七年(一五八九)まで奥平氏領で、奥平貞昌・貞勝・信昌の支配下にあった。村内に古城跡が三ヵ所あり、奥平氏家譜(生田家文書)によれば、貞昌の弟信近が田代たしろ城主とあり、天正三年長篠の戦の際の田代城主は奥平勝吉、明見城主は奥平十郎左衛門、黒谷くろや城主は黒谷勝直であるという。字田代にある宮崎神社の東山麓中に奥平信昌墓石がある。

天正一八年吉田よしだ(現豊橋市)城主池田輝政領、慶長六年(一六〇一)幕府領となる。


明見村
みようけんむら

[現在地名]美作町明見

倉敷くらしき村の北に位置する。梶並かじなみ川とたき川の合流点の北に広がる村で、滝川を隔てて南に三星みつぼし山がある。倉敷村と津山城下とを結ぶ往来が通り、南に向かうと入田にゆうた村。古くは妙見とも記し、「東作誌」によれば三星山に対する呼称とされ、また古明見と称される地が滝川南岸にあったが、のち北岸の現在地に移ったのが当村であるという。康安元年(一三六一)南朝方の山名氏が当地方に侵攻した際、「林野はやしの妙見めうけん二ノ城」は二〇日間余にわたって耐えたが、七月一二日ついに山名氏側についた(「太平記」巻三六)


明見村
みようけんむら

[現在地名]南国市明見

香長かちよう平野中央部にあり、「妙見」とも記される。「土佐州郡志」は「東限篠原、西限大津、南限介良、北限大津上之村川、東西二十町南北四町余」「以氏神社名、村有豊岡通浦戸道路、曰牛踏」と記す。長岡ながおか台地南端の低湿な三角洲地帯にあたり、まとヶ池や丸矢まるや池などがあった(土佐州郡志)。集落は山沿いに展開。沢地であることから早くから開けたらしく、弥生時代の竹の後たけのあと遺跡や、明見彦山みようけんひこやま古墳群・狸岩たぬきいわ古墳群がある。当村域は長宗我部地検帳では天正一六年(一五八八)の大津郷地検帳に含まれていたようで、「妙見ノ東」「妙見ノ後」などとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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