中国,唐の太宗李世民(在位626-49)と文徳皇后長孫氏の合葬陵。636年(貞観10)に長孫皇后を葬ってから太宗の崩御する649年まで,13年を費やして造営した。渭河北岸で渭河平原を見下ろす丘陵地帯,陝西省礼泉県の北東約24kmにある九嵕(くそう)山にある。陵は丘陵のなかでひときわそびえる標高1188mの主峰を利用する。記録によると,南西に深さ75丈(約250m)をうがって玄宮(墓室)をつくり,険しい絶壁に設けられた桟道を通らねば墓門に達することができなかったという(《唐会要》巻20)。陵の北面に祭壇址と司馬門址がある。祭壇は梯形の広場で,司馬門には諸蕃の君長の石像を立てたが,現在は台座しかのこっていない。また,太宗が隋末の混乱から唐朝を創建する戦いの中で騎乗した6頭の愛馬を閻立本の描いた図案をもとに彫刻したという昭陵六駿がここに置かれていたが,うち2駿はフィラデルフィア大学博物館に持ち去られ,のこりの4駿が陝西省博物館に収蔵されている。南面に朱雀門址と献殿址があり,後者から大きな鴟尾(しび)が発見されている。南西方の237m×234mの城壁をめぐらす地域は下宮(皇城ともいう)とよばれ,山陵に奉仕する官人が駐在した。
九嵕山の丘陵から南麓の平地部にかけて,約20万haが太宗の皇親や功臣を陪葬した陵園で,柏城ともいう。山上には嫡主の3公主と燕妃および唐朝草創の功臣である魏徴の墓を配し,それ以外は山下に墓をつくる。現在167基の陪葬墓が確認され,うち57基の被葬者が判明し,1981年までに11基が発掘されている。現在,李勣(徐懋功)墓の墓域内に昭陵博物館が設けられ,石碑,墓誌,発掘品などが陳列されている。
執筆者:町田 章
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中国、唐の太宗の陵。陝西(せんせい/シャンシー)省醴泉(れいせん)県県城の北東25キロメートルの九山(きゅうそうざん)にある。太宗存命中の637年(貞観11)2月起工、639年完成。10年後崩御して埋葬ののち、工事のため山頂近くの断崖(だんがい)につくった桟道は、盗掘を恐れて取り去られたというが、『五代史記』に盗掘の記録がある。高くそびえる九山の山麓(さんろく)には、太宗の娘や功臣たちの陪冢(ばいちょう)が多数並び、近年これが発掘されている。陰山をかたどったという三山形式の名将李勣(りせき)の墓地には、昭陵博物館が設けられ、ここに多くの石碑や墓誌石や明器(めいき)などが集められている。また昭陵の北門には、太宗の愛馬、六駿(ろくしゅん)(特勒驃(とくろくひょう)、青騅(せいすい)、什伐赤(じゅうばつせき)、颯露紫(さつろし)、拳毛(けんもうか)、白蹄烏(はくていう))の石像が置かれていた。颯露紫と拳毛の2石像は清(しん)末にアメリカに持ち去られたが、他の4石像は現在、西安(せいあん/シーアン)の陝西省博物館にある。
[吉村 怜]
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[唐~清]
唐の陵墓は最後の昭宗和陵を除く18陵がすべて渭水の北にあり,関中十八陵と称する。初代高祖献陵は平地に築かれ高さ約15m,一辺100m前後の方錐形であるが,太宗昭陵は墳丘を築かず九嵕山(きゆうそうざん)の山腹に墓坑をうがち山上陵とし,唐代帝陵の制とした。高宗と則天武后の乾陵では山をめぐって牆壁が築かれ,四方に門があり石獅子がおかれた。…
※「昭陵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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