月ヶ瀬村(読み)つきがせむら

日本歴史地名大系 「月ヶ瀬村」の解説

月ヶ瀬村
つきがせむら

[現在地名]天城湯ヶ島町月ヶ瀬

狩野かの川上流の西岸に位置する山村で、東対岸は田沢たざわ村、船原ふなばら川を挟んで北は下船原村当地ひじり神社の永正九年(一五一二)一一月二六日の棟札銘に「伊豆州狩野庄□瀬村」、享禄五年(一五三二)一一月一五日の棟札銘には「伊豆国狩野庄槻瀬村」とある。下船原すけ神社の天文二年(一五三三)の社殿造営勧進者を記すなかに「月ケ瀬百文左衛門太郎」とある(同年九月二四日棟札銘)。北条氏所領役帳には北条家臣御馬廻衆後藤惣左衛門忠成の所領として五七貫九〇〇文「豆州月ケ瀬」とみえ、弘治二年(一五五六)に北条氏が検地を実施している。


月ヶ瀬村
つきがせむら

[現在地名]池田町月ヶ瀬

常安つねやす村の東にあり、集落の南を河内こうち川が西流する。文明一五年(一四八三)の時春寄進状(上島家文書)に「月ケ瀬村百姓中」とある。上島家は江戸時代村庄屋を勤め、大永・永正・天文・元亀の年号をもつ月ヶ瀬薬師堂への寄進状等を蔵す。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に高一七九・六四石とあり、正保郷帳では田方九四石余・畠方八四石余。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)によれば、反別一五町六反余(うち田方六町一反余・畠方九町五反余)、家数四八(本百姓二三・水呑二四・道場一)、人数一八四(男九五・女八九)、牛一〇頭。小物成には夫米・山手米・三杷木役・糠代・藁代があった。


月ヶ瀬村
つきがせむら

面積:二一・二〇平方キロ

東は三重県、北は京都府に接する。宇陀郡に発し、伊賀盆地を流れて大和高原に入った名張なばり川が、雄大なV字形の渓谷を刻みながら村内を西流する。当村付近では五月さつき川とよばれ、渓谷の両岸には古くから梅が多く、月ヶ瀬梅渓として広く知られる。文久元年(一八六一)二月二一日、当村に遊んだ近藤芳樹は「桜梅日記」に次のように記す。

<資料は省略されています>

現在この渓谷は山辺郡山添村の神野こうの山一帯とともに、県立月ヶ瀬神野山自然公園に指定されている。


月ヶ瀬村
つきがせむら

[現在地名]河合村月ヶ瀬

小鳥おどり川を挟み、東は元田げんだ村、北は天生あもう村、南はほう村。集落は小鳥川谷底の小段丘上に散点する。村名は槻ヶ瀬であったが、月ヶ瀬伝説が流布されるに及んでこの文字となったのであろう。中世は保村の枝村であったことは文明三年(一四七一)五月三日の信広・善祐連署置文(大屋利喜雄氏所蔵文書)に、保村と天生村の村境は「あも谷をさかい」とするとあり、現在の天生谷の分水嶺となっていることからあきらかである。


月ヶ瀬村
つきがせむら

[現在地名]虎姫町月ヶ瀬・旭町あさひまち

村の北に位置し、地内を田川が南東流、西端を北国街道が通る。「東浅井郡志」によれば天正一九年(一五九一)検地で七〇〇石余、慶長七年(一六〇二)検地では七四八石余。寛永石高帳では幕府領、元禄郷帳では甲斐甲府藩領、天明村高帳では遠江浜松藩領五九六石余と幕府領一五五石余の相給。のち浜松藩領分は出羽山形藩領となる。嘉永二年(一八四九)の加宿助郷帳(木屋本陣文書)によれば助郷高一二七石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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