服飾規制(読み)ふくしょくきせい

改訂新版 世界大百科事典 「服飾規制」の意味・わかりやすい解説

服飾規制 (ふくしょくきせい)

ギルドや学校における制服,式典や宮中における礼服など,一般的な意味での服飾規定は洋の東西や時代を問わず存在する。しかしこれをヨーロッパにおいて見てみると,服飾と身分制秩序とのかかわり合いが強く意識され,日常生活の服飾が細かく規制されたのは,中世的な身分制秩序が弛緩しはじめた主として14~18世紀である。ふつう,こうした規制は〈奢侈(しやし)禁止法(ぜいたく禁止法)sumptuary law〉として一括される諸法の中心をなしている。それぞれの身分には,それにふさわしい服飾があり,分を超えた服装をすることは〈奢侈〉であり,越権行為であるというのが,こうした法令の趣旨である。つまり,奢侈禁止法そのものが,一般的な奢侈を禁じたものではなく,あくまで〈分を超えた〉奢侈の取締りを意図していたのである。その規制内容は,宴席における料理の品数から刀剣の長さ,馬具の飾りなど多彩だが,圧倒的に衣服,とりわけ成人男子の衣服のあり方を問題にしている。衣服は最も人目につきやすいステータス・シンボルであったし,身分制社会における身分は,戸主である成人男子のそれを基準としており,妻,子ども,召使いなど家族内の従属的メンバーの身分は,戸主のそれに準じるのがふつうだったからであろう。

 1337年に最初の服飾規制を含む奢侈禁止法の出たイギリスでは,とりわけ16世紀に大小二十数件の法令・布告が頻発され,当時流行の半ズボン(ホーズ)と長靴下スタイルや襞襟(ひだえり)などについて,材質,デザインの両面から,身分や階層別に詳細な規制を設けた。政界の実力者T.ウルジーやW.セシルが熱心だったこともあり,ロンドンなどでは,市内に監視員を置いて違反者の摘発を目ざすほどであった。しかし,法令の実際上の効果は疑わしく,違反者として処罰された例はごく少ない。実際には新興ブルジョアジーの経済力が高まり,旧来の身分制秩序がどんどん崩れてゆくために,衣服をはじめとする私的な生活の様式に対する法的規制は評判が悪くなる一方であった。奢侈禁止法は,まさに〈服飾〉に表れた身分制秩序の乱れを食い止めようとする試みであったが,逆にその法令自体がステータスの分類に〈年収〉などというブルジョア的な原理をとり込むようにさえなって,法体系全体が無意味化してゆく。こうしてイギリスでは,奢侈禁止法は世界に先がけて1604年,ジェームズ1世の即位の翌年に全廃され,以後何度か再施行の試みはあったが成功しなかった。他方1294年に最初の奢侈禁止法を出したフランスをはじめ大陸各国では,当時なお国法としてか都市の条例としてかはともかく,各種の奢侈禁止法が後述のように施行されており,最後のそれは1776年にポーランドで出されている。日本でも江戸時代にしばしば倹約令が出されていた。これらのことがらは,イギリスにおける身分制秩序の崩壊の早さを象徴している事実といえよう。

 奢侈禁止法の廃止は,身分によって人々の生活様式が規定されるのではなく,生活様式こそがその人の社会的地位を決めるような,ブルジョア的,都市的なステータス原理への転換の第一歩となった。以後のイギリス社会では,衣服の流行を追うことがひとつのステータス・シンボルとなってゆくが,このことが国内消費市場の統一・拡大に役だち,世界で最初の工業化の一前提となったともいえる。
執筆者: ヨーロッパ大陸では,13世紀末から奢侈禁止法が多くの都市で次々に出された。イタリアでは1274年,教皇グレゴリウス10世のもとでリヨンの公会議で信者に対し,装飾の多い衣服の着用を禁じたことに始まり,以後多くの都市でやつぎばやに規制された。79年には18歳になるまでは胴衣の胸を大きく開けてはいけないとか,94年のボローニャでは女性に対して金銀糸を織り込んだ布や金糸のベールを禁止し,トレーンの長さも規制されている。また14世紀には召使いの女性のスカートは床までの長さとし,革靴や女主人と同じかぶり物を禁止した。ルネサンス期にも化粧,髪形,衣服について次々に禁令が出されたが,それらは必ずしも守られてはいなかった。ドイツでも1486年に短い衣服やエプロン,シュミーズの着用が禁止されている。下って17世紀のスイスでは,ボンネットの高さは3インチ以内にすることとか,子どもは絹を身に着けてはいけないとされ,18世紀初頭には女中の絹のスカーフ着用が禁じられた。フランスではルイ王朝時代に一般民衆に対し,ベルベットをはじめとする絹織物や金銀のボタンを禁止し,鬘(かつら)の形も決められていた。しかしフランス革命以降はそれらの規制は解かれた。
執筆者:

日本でも古代から服装についての規制は官人などを中心に定められていた(〈服制〉〈禁色(きんじき)〉の項目参照)。しかし広範かつ具体的な規制が明らかであるのは江戸時代である。江戸幕府衣服統制については武家諸法度(ぶけしよはつと)に条文があり,これには〈君臣上下〉を衣類によってもはっきりさせること,〈郎従諸卒〉の服装がぜいたくになっているので抑制すべしとある。前者の場合,〈白綾,白小袖,紫袷〉をみだりに着用してはならないとあり,後者については諸士法度(旗本法度)に具体的に定められている。すなわち〈歩(かち),若党〉の衣類は〈紗(さ)織,ちりめん(縮緬),平嶋(ひらしま),はふたへ(羽二重),絹,紬,木綿〉,〈弓,鉄炮〉の足軽は絹,紬,木綿以外の高級織物の着用を禁止し,〈小者(こもの),中間(ちゆうげん)〉は布(ぬの)(麻),木綿のみを用いるべしとしている。諸士法度が出された寛永期(1624-44)には,武家の奉公人に至るまで絹物を着用していたが,幕府は封建的支配の確立と近世武士の身分的秩序を守るために衣類の面でも区別する必要があり,衣服統制令は諸藩にも達せられた。藩によっては同文の幕法をそのまま布達しているが,土佐藩のように歩・若党の木綿・合羽・紙合羽の襟にビロードを付けることを禁止するなど,独自の規定を加えている藩もある。いずれにしても幕府の衣服統制令は全国的に徹底されたのである。

 この幕府の衣服統制令とは別に,藩は家臣団の衣服に規制を行っている。1624年の長州藩の条令を見ると,〈諸士衣裳は在国中は有合(ありあい)次第,木綿でも着用のこと,他国役は別〉とあり,続いて〈内の諸侍衣裳は布子(ぬのこ)・紙子(かみこ),但草履取・中間以下は絹衣一切停止(ちようじ)〉とある。公用以外は木綿着用と規制しているのは薩摩藩などにも見られるが,多くの藩においても同様の事実があったと思われる。もっとも,鳥取藩,徳島藩のように日野絹,郡内絹,桐生絹の〈田舎絹〉なら許可したり,領国産の織物を保護するため唐物(からもの)(輸入物)の衣類の使用を禁止している加賀藩の例もある。藩の衣服統制のねらいは家臣団の質素倹約にあった。在国中は木綿など質素な服装を,参勤交代で江戸在府中は絹物を着用したのが,大方の藩士の実態であったと思われる。

 近世武士の経済的基礎である農民に対する衣服統制についていえば,1628年の幕法で,〈百姓分〉は麻,木綿,名主と〈百姓之女房〉は紬の着物まで許すが,それ以上の衣装は禁じられた。この法令は諸藩に通達された模様で,35年の加賀藩法に〈百姓衣類は自今以後,布,木綿の外一切停止〉とある。この農民衣服統制は五人組を通して徹底された。1633年の遠江国榛原(はいばら)郡吉永村の〈五人組一札〉には〈百姓不似合けんふ(絹布)のいしょう(衣装)〉は用いないことが記されている。ところで農民の中でも名主,庄屋の衣服は別格であった。寛永末年の幕法を見ると,名主,庄屋は妻子とも絹もよいとされ,衣服の面では武士身分の扱いをうけている。幕府は近世農民の階層的秩序を衣服で区別したのである。幕藩権力が一般農民の衣服を麻,木綿とした意図は何か。42年の信濃国糠尾村五人組御帳に〈百姓之女房,よめ,むすめ絹布類一切〉着用させないとあり,また庄内藩の1660年(万治3)の藩法に〈百姓〉は麻,木綿など寒暑を防ぐに足る衣服であればよく,〈年貢を未進なく納〉むべしとある。寛永期になると農民の間にも絹物の使用が広がり,幕藩権力にとって,このような農民衣服の華美化は年貢完納上,抑制する必要があったのである。

 町人の衣服については絹,紬,木綿,麻とし,町家の奉公人は木綿,麻のみとされた。1668年(寛文8)の江戸町触(まちぶれ)によれば,町人の衣類は上下の身分に応じ,倹約を守るべしとしている。町人の衣服は高級な織物でないかぎり,絹物を着ることを許されていた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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