服制(読み)フクセイ

デジタル大辞泉 「服制」の意味・読み・例文・類語

ふく‐せい【服制】

衣服に関することを定めた制度

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精選版 日本国語大辞典 「服制」の意味・読み・例文・類語

ふく‐せい【服制】

  1. 〘 名詞 〙 衣服に関することを定めた制度・規則。
    1. [初出の実例]「在家依其服制」(出典:令義解(718)儀制)
    2. [その他の文献]〔史記‐武安侯伝〕

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改訂新版 世界大百科事典 「服制」の意味・わかりやすい解説

服制 (ふくせい)

衣服に関する制度,規制をいう。

中国では,広義には服装全般にわたる規定をいうが,ひと口に服装といっても,腰から上の着物である〈衣〉,腰から下の〈裳(しよう)〉(男女共用のスカート状のもの,したばかま)のみならず,〈冕(べん)〉(かんむり),帯,履物,装飾品など,要するに身につけるいっさいのものにおよぶ。狭義には喪服(もふく)および服喪に関する規定をいう。いずれにせよ,中国において服装は〈体系のなかに組み込まれ,その一翼をになうものであって,実用性にとどまらずシンボリックな意味を付与されていた。したがって,衣服の自由で恣意的な着用は原則として許されず,上は天子から下は庶民に至るまで,その服装・服飾は,社会の身分的差等を美的に秩序づける〈礼〉構想にのっとって細かく規定されていた。

 服制はこれを二つの視点からとらえるのが有効である。一つは,上に述べた身分的差異という観点である。服装がいわば社会的ステータスのもっとも明解な表現とされたのは,今とほとんど変わるところがない。いま一つは〈場〉の観点である。冠・婚・葬・祭その他の,それぞれの場にふさわしい服装のあり方があるとされたのも,現代のわれわれの感覚から隔たるものではない。しかし,そこでも身分的秩序は貫徹されたから,服制は身分を縦軸とし場を横軸とする座標として表すことができるはずである。次に服制のあらましを具体的に述べよう。

 服制の古典的記述の一つである《周礼(しゆらい)》春官・司服に次のようにいう。これはさしずめ天子という縦軸の一点を動かさず,場の横軸へと展開させたものといえるであろう。

 〈王の吉服は,昊天(こうてん)上帝(天を神格化した至上神)を祀(まつ)るときには大裘(きゆう)(大きな皮のガウン)を着て冕(べん)を着用する。五帝(太古の5人の帝王)を祀るときも同様である。先王(いにしえの偉大な天子)を享(まつ)るときは冕(こんべん)(竜のぬいとりをした礼服と冠)し,先公(王室の先祖)を享り饗射(きようしや)(お客のもてなしと弓を射る礼)するときには鷩冕(べつべん)(キジを描いた礼服と冠)し,四方の山川を祀るときは毳冕(ぜいべん)(虎と猿を描いた礼服と冠)し,社稷(しやしよく)(土地と穀物の神)と五祀(ごし)(五行の神)を祭るときは希冕(きべん)(米粒のぬいとりをした礼服と冕)し,その他の群小のお祭りには玄冕(衣に模様なく裳にぬいとりがあるだけの礼服と冠)する……〉。

 このあと,縦軸に視点が移り,公は冕以下,侯・伯は鷩冕以下,子・男は毳冕以下,孤(大臣クラス)は希冕以下,卿(けい)・大夫(たいふ)は玄冕以下の着用が許されると書かれている。

 《書経》益稷(えきしよく)にも,天子の服制に関する古典的記述がある。それによると,天子の上衣には日・月・星辰・山・竜・華虫(キジ)の六つを描き,もすそには宗彝(そうい)(虎と猿)・藻(水草)・火・粉米(米粒)・黼(ふ)(斧の形の模様)・黻(ふつ)(己の字の形をした模様)の六つをぬいとりするという。いわゆる天子十二章である。

 上に引いたのは,服制に関する経書の代表的な記述であるが,旧体制の中国人には経書や古代志向が強かったから,こうした記述は彼らが現実の服制を定めてゆく際の規範となった。ただ,それらはおおむね礼服であって,常服になると歴代多様な服制がくふうされている。その場合,服色も重要な要素であって,隋代には天子の服は〈黄袍(こうほう)〉と定められ,歴代これを襲った。唐代には百官の服色が規定され,三品以上は紫,四品五品は緋(ひ),六品七品は緑,八品九品は青と4等にランクづけられ,次の宋朝もこれにならった。明代の官服は上下とも赤に統一され,官位の貴賤は服の模様(花様)によって表された。公・侯・駙馬・伯は麒麟(きりん)・白沢(神獣)を服に刺繡し,文官は鳥,武官は獣をもってした。むろん,官位の高下によって鳥獣の種類は異なっている。たとえば,文官の一品二品は仙鶴と錦鶏であり,武官の一品二品は獅子である(伊藤東涯《制度通》服章の項)。

 狭義の喪服についていえば,着すべき喪服の布地と裁縫のしかた,および喪に服す期間の長短によって,(1)斬衰(ざんさい),(2)斉衰(しさい),(3)大功,(4)小功,(5)緦麻(しま)の五つ(五服)に分けられる。この服喪制度は中国の宗族制とかかわってきわめて複雑であるが(宗族),ごくあらましを述べると次のようになる。(1)の斬衰はもっとも重い服喪で,この喪に服する人は,ひじょうに粗(あら)い麻布で作られた喪服を着用する。布が裁断されたままでふちぬいされていない,きわめて粗末なものである。子が父のために,妻が夫のために,臣下が君主のために行う。(2)の斉衰は次に重い服喪だが,麻布で作られた喪服はふちぬいされている。自己と死者との尊卑親疎の程度によって,三年・杖期・不杖期・五月・三月の別があるが,おおむね母をはじめ直系尊属,配偶者,兄弟姉妹,子供のために服する。(3)の大功,(4)の小功,(5)の緦麻の喪服は,精粗の違いはあれいずれも布をもって製し,主として傍系親のために服する。いずれにせよ,中国の喪服は日本のように黒く染められてはおらず,生地のままの白である。
執筆者:

日本古代における服制の衣服には衣(きぬ),裳(も),褌(はかま),帯,襪(しとうず)等のいわゆる衣類の他に冠,履(くつ)等をも含むものとする。

(1)大化前代の服制 古墳時代の服制は古墳出土の人物埴輪によってかなり詳細にうかがうことができる。男子は衣・褌,女子は衣・裳を基本とするいわゆるツー・ピースであった。男の衣=上衣は腰よりやや長めの短衣で裾が広がり,袖は細い筒袖,襟は盤領(あげくび)で左衽(ひだりまえ)に合わせ上下二ヵ所を紐で結ぶ。上衣を胴の上から細帯や幅広帯で結び,装飾や物を垂下するに用いた。下半身に着用する裾広がりのズボンが褌であるが,かなりゆったり仕立ててあり,膝下を紐で結んだ。古典に見える〈足結(あゆい)〉の紐で,これに鈴を付けることもあった。女子の上衣も窄袖(つつそで)・盤領・左衽が普通で男子のそれと共通であるが,は褌とは違い膝長(たけ)ほどのスカートと思われるものである。そして男女いずれも装身具として玉の首飾を着用することが多い。

 以上はいずれも当時の支配階級の送葬時の盛装であり,一種規格化された服装である。603年(推古11)冠位十二階を制定し,冠は各当色の絁(あしぎぬ)をもって縫うこととしたが,これにより服色は冠色にしたがうこととなった。

(2)大化以後の服制 大化改新の後,647年(大化3)七色十三階冠位を制定し,各階の服色をも定めた。2年後に冠位を十九階に改定,664年(天智3)二十六階に改定したが服色は改めなかったのであろう。685年(天武14)親王・諸王十二階,諸臣四十八階の冠位を定めるとともに服色を改定,690年(持統4)服色だけをさらに改定した。

 衣服をもって身分秩序を整えるには,服色以外にも推古朝で王臣に(ひらみ)を着用させ,天武朝では逆に褶,襅(まえも),脛裳(はばき)等の着用を禁じ,膳夫(かしわで)・采女(うねめ)の手(たすき)・領巾(ひれ)までも禁止,次いで襴(すそ)は男女とも使用は自由とするなど,紆余曲折を経たが,持統朝に施行された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりよう)において後の令の服制の基本が据えられた。

(3)大宝・養老令の服制 701年(大宝1)制定の新位階にともなう服色は,持統朝改定のそれを継承したものであった。同年制定の大宝令,718年(養老2)ころ制定の養老令における服制はその衣服令に見られる。それによれば王臣の服制は礼服(らいふく)・朝服(ちようふく)・制服(せいふく)に三大別される。男子の礼服は皇太子・親王・諸王・諸臣の五位以上と4種あり,親王以下はさらに品位により細かな差が設けられた。女子の礼服は内親王・諸王・内命婦(ないみようぶ)(五位以上)の3種である。以上いずれも元日,即位式などに着用。朝服は王臣を通じて朝廷に出勤する際に着用し,位階に応じて区別があることは男女共通。制服は無位の男女官人の服。この他に武官の礼服・朝服が別に定められた。なお服色は相当色以下は自由に使用できた。庶人の服色は制服の黄以下,家人奴婢のそれは橡墨(つるばみのすみぞめ)に限られた。しかし,唐風の勝った令の服制は平安時代に入ると一変し,王朝風のそれに取って代わられた。
束帯 →十二単
執筆者:

明治新政府は1868年(明治1)6月10日に,服制について諸臣の上言を求め,70年には集議院への諮問があった。公家と武家の混在する新政府では,服装統一が急務であり,西洋文明を採り入れて大改革を行うには,服装刷新の必要があった。初岡敬治,是洞比古太郎の反対上申,左大臣島津久光の頑強な守旧思想への対応に辛苦し,天皇の裁断によって押さえた。71年9月4日,服制を改め風俗を一新する勅諭を近臣に与え,翌年11月12日に太政官布告の服制を公布した。これは日本改造論者福地源一郎(桜痴)が,〈突飛家の勝利〉と驚嘆したほどの大変革であった。

 新服制には洋式の文官大礼服と通常礼服を定め,宮中祭服を残して,旧衣装はすべて廃された。大礼服は新年朝拝,元始祭,新年会,伊勢両宮例祭,神武天皇即位日,神武天皇例祭,孝明天皇例祭,天長節,外国公使参朝の節に,有位の官員が着用する最高の礼服である。勅任官,奏任官,判任官の階級を,装飾の差異によって区別した。帽子では飾毛,右側章,ボタン,上衣では飾章繡色,紋章,縁側章,大ボタン,下衣では小ボタン,ズボンでは両側章によって階級を示す。袖口に等級標条を付け,勅任官は1~3等,奏任官は4~7等,判任官は8~15等あり,等外の1~4等まであった。非役有位四位以上は勅任に准じ,五位以下は奏任に准じ,装飾各部に非役を表示した。封建体制の礼服以上に階級的であり,金ピカ服と呼ばれるほど金モール飾が輝いた。通常礼服は参賀,礼服御用召,任叙御礼に用い,黒ラシャの燕尾服である。様式・用法は西欧宮廷にならい,服飾に日本の文様を用いた。

 新服制は男子服だけを定め,女子は古来の(うちき)と緋袴(ひのはかま)を着用した。74年から西欧風に夫人同伴の参朝となっても,夫人には古式の和装が指定された。82年に三宮式部長官が洋装化を決定し,84年に定めた和装婦人服制に,場合による洋装を認めた。洋式服制は,86年6月23日の宮内省内達で実現した。西欧宮廷と同様な大礼服マントー・ド・クールmanteau de cour,中礼服ローブ・デコルテrobe décolletée,小礼服ローブ・ミーデコルテrobe me-décolletée,通常礼服ローブ・モンタントrobe montanteである。大礼服は新年式に着用する豪華な最高礼服で,トレーンを引き,その長さとお裾奉持の人数は,身分によって定まる。中礼服は夜会,晩餐会に用いるイブニングドレスであり,西欧宮廷と同じく中礼服とした。小礼服はその略装である。通常礼服は肌を露出しない昼間礼服で,昼の御陪食等に用いる。新服制は日本服装の洋装化を決定づけ,近代天皇制の装いを完成した。第2次世界大戦中には,国民服に儀礼章を付ける礼服を勅令で定め,皇室令による袴式婦人通常服も制定した。戦後皇室では燕尾服とローブ・デコルテが用いられているが,法規による定めはない。
衣服 →服飾規制 →服装
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普及版 字通 「服制」の読み・字形・画数・意味

【服制】ふくせい

喪服の制度。

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