天皇、皇太子、親王、公卿(くぎょう)、中宮、内親王など上位の者が用いる服色、および織物で、一般の者が着用することを禁じたもの。飛鳥(あすか)時代以来、服色によって身分を表す制度により、位階相当の色、すなわち当色(とうじき)が定められ、それより上位の服色を用いることを禁じた。平安時代以降は当色以外の使用を禁じたほか、天皇の当色である白、黄櫨染(こうろぜん)、青色、皇太子の黄丹(おうに)、上皇の赤色、上位の者が用いる紫や紅の濃い色、および錦(にしき)や二陪(ふたえ)織物は禁色とされた。『三代実録』清和(せいわ)天皇の貞観(じょうがん)12年(870)に、禁色を下衣となすことを許さずとあって、禁色が下着にまで及んでいたことを示している。同じく陽成(ようぜい)天皇の元慶(がんぎょう)5年(881)に、男女とも茜(あかね)、紅花(こうか)を支子(くちなし)に交え染める色は深浅を論ぜず服用することを禁ずとあり、黄丹に見間違える支子色を禁じた。『日本紀略』延喜(えんぎ)14年(914)に、美服紅花の深浅色等を禁ずとあり、紅についても制限された。なお禁色の宣旨を蒙(こうむ)るといって、天皇の許可によって特定の禁色を用いることを「色聴(いろゆ)る」といった。普通は四位、五位のときにこの宣旨を蒙り、摂関家の子弟は元服の日に蒙った。禁色を聴(ゆ)るされた人を禁色人(きんじきのひと)と称した。勅許によって用いるものは、たとえば紫や紅の濃い色、窠(か)に霰(あられ)文の浮織物の表袴(うえのはかま)などであった。また蔵人(くろうど)は青色の袍(ほう)を下賜されて着用した。女性の禁色については、父親の位階に準じて使用することができ、『満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)』によると、上﨟(じょうろう)の女房は青色、赤色の織物の唐衣(からぎぬ)、地摺(じず)りの裳(も)を許された。また男女とも聴るしの色といい、紫と紅の薄い色は使用できた。
[高田倭男]
服制の上で,勅許されなければ着用できない衣服の色および服地。令制では,親王以下官人の位階に応じて着用する服の色が規定されており,当色(とうじき)という。当色より下位の色目の着用は自由であったが,上位のものは禁じられていた。平安時代に入り,服制の変化,束帯の登場にともなって,青が天皇,赤が上皇,黄丹(きあか)が皇太子,深(こき)紫が親王や一位の着用の色となり,これに同系統の支子(くちなし),深緋,深蘇芳(すおう)が加えられて七色が一般の着用を禁じられた。しかし,大臣の子,孫,天皇に近侍する四,五位(六位も)の蔵人などは特別に宣旨をこうむって着用が認められた。これを〈禁色の宣旨〉といい,勅許されることを〈禁色を聴(ゆ)る〉〈色を聴る〉という。色ばかりでなく,有文(うもん)の綾織物も禁じられ,江戸時代では窠(か)に霰(あられ)文が禁制であった。女子の禁色もあり,青,赤色の綾織物の唐衣(からぎぬ)や地摺りの裳などであった。
→服制
執筆者:平林 盛得
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…いかに五色の考え方に規制されるところが大きかったか,ということを知る。加えて,平安期をも含めた古代宮廷社会においては,衣服から装身具まで,位階や身分に応じて使用すべき色(当色(とうじき))や使用不許可の色(禁色(きんじき))が厳格に定められてあったから,必然的に,色彩の感じ方にも尊卑観念のつきまとうことは避けられなかった。そして,位袍(いほう)のシステムにおいて,一~三位が紫または黒,四・五位が赤,六・七位が緑,八・初位が縹と定められていたから,〈あお〉の色は,greenおよびblueをひっくるめて尊貴の色に遠いという感じ方が固定してしまった。…
※「禁色」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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