江戸中期の漢方医。讃岐(さぬき)国(香川県)丸亀(まるがめ)藩医雷山(1661―1742)の子。名は乗、字(あざな)は君彦、鹿門(ろくもん)と号した。三英は通称。幕府の医官を勤める元椿の死後その家を継ぎ、1726年(享保11)番医、1737年(元文2)侍医に任ぜられ、法眼に叙せられた。将軍徳川吉宗(よしむね)の知遇を得、広く諸医書を読んで諸説を取り混ぜ、折衷説を唱えるに至った。西の吉益東洞(よしますとうどう)と並び称されたが、彼は東洞の「万病一毒説」を排斥した。1753年(宝暦3)『医官玄稿』を著し、古今諸家の言説を騙取(へんしゅ)してはならないゆえんを痛論した。他の著作に『明医(みんい)小史』『又玄余草(ゆうげんよそう)』など。
[大鳥蘭三郎]
(石田秀実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...