行為者が犯罪以外の行為(適法行為)を行うことを期待できる可能性。このような適法行為の期待可能性を、単に、期待可能性Zumutbarkeit(ドイツ語)という。刑事責任を問うためには、期待可能性が必要であり、今日では、責任能力などとともに責任の一要素とされている。
刑法上の責任のとらえ方につき、かつては心理的責任論とよばれる考え方を前提として、責任の実体は行為者の心理的関係(事実または可能性)と解され、行為者に責任能力のほか、故意または過失があれば責任を肯定しうるものと考えられていた。ところが、ドイツで、ライネンフェンガーLeinenfänger事件とよばれる有名な事件(馬車の御者が雇い主に対し暴れ馬を他の馬と交換するよう要求していたにもかかわらず、雇い主がこの要求に応ぜず、解雇すると迫ったので、やむをえず雇い主の命令に従い暴れ馬を使用していたところ、誤って通行人に負傷させたという事案。暴れ馬事件ともいう)に対し、ライヒ裁判所は、1897年、その職を失ってまで雇い主の命令に逆らうことは、前記の御者には期待できないとの理由で無罪を言い渡した。この判決を契機として、フランクReinhard Frank(1860―1934)をはじめ多くの有力な刑法学者が、責任能力者の故意または過失による行為であっても、行為の際の具体的事情によっては、行為者に責任を問いえない場合があることを認めるに至った。そして、刑法上の責任は、心理的要素とともに、行為者に適法行為に出ることを期待できるという規範的要素をも具備することを要するものと解されることとなった。このような背景のもとに、かつての心理的責任論にかわって、責任の本質は行為者に対する非難可能性であり、この非難可能性は適法行為の期待可能性の有無により判断されるとする規範的責任論が支配的となるに至った。規範的責任論においては、期待可能性は責任の中核をなし、責任の存否および程度を判断するうえで決定的な意義を有する。ただ、期待可能性に関し、とくにだれを基準としてこの可能性を判断すべきかという点につき、行為者標準説、通常人(平均人・一般人)標準説、国家標準説の争いがみられる。いずれにせよ、期待可能性の理論は、可罰的違法性の理論などとともに、刑法の画一的・形式的な運用を避け、その具体的妥当性を図るうえで、重要な意味をもつ。日本の実務でも、下級審裁判所判例には、期待可能性が少ないとして責任を軽減したもの、さらには期待可能性の不存在を理由に無罪としたものもみられるが、最高裁判所は消極的な態度をとっている。
[名和鐵郎]
法律用語。犯罪行為時において行為者に適法行為を期待しうることをいう。期待可能性は,刑事責任の本質を法的あるいは道義的非難可能性に求める規範的責任論における中核的概念である。なぜなら,刑法とは,犯罪行為に対して刑罰という制裁を反対動機として告知することにより,人間の行動を心理的にコントロールするものであるから,そこでは,行為者が行為時において,適法行為へと意思決定しうる可能性を有していたことが前提となるからである。すなわち,そのような可能性があったにもかかわらず,あえて違法行為を選択したところに非難の契機が求められる。期待可能性論は,20世紀はじめドイツ刑法学において生成,発展したものであるが,故意・過失を通じて刑法上の責任概念を統一的に理解し,説明しうるものであるため,日本でも支配的な見解となっている。期待可能性論によれば,行為者が責任能力者であり,故意または過失の存する場合であっても,適法行為を期待できない特段の事情の存するときは,責任の欠如のゆえに不可罰とする余地が認められる。たとえば,ドイツの判例は,馬車の御者が,馬に尻尾を手綱に巻きつける癖があって危険なため,別の馬に取り替えるようたびたび雇主に申し出たが,雇主がこれを聞かず,御者も雇主の命令に服さなければ失職するためやむをえず乗車を継続していたところ,予想どおり事故を起こしたという事件(暴れ馬車事件)で,この御者を無罪にしている。日本の判例でも,下級審には期待可能性の欠如に基づき無罪を認めたものがあるが,最高裁判所には,この理論を正面から認めたものはない。
→責任
執筆者:西田 典之
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…これを心理的責任論という。心理的責任論から規範的責任論への移行は,すでに責任要素としての故意・過失の心理的分析においても,過失については,認識すべきであり可能であったのに認識しなかった不注意ということが単なる心理的事実を超えた義務違反の要素を含むのではないか,故意についても,単なる事実の認識を超えた違法性の認識等を含むのではないか,という形での規範的要素への注目という点において始まっていたが,20世紀初頭のドイツにおける期待可能性論の台頭とその急速な一般化によって決定的なものとなった。詳細は〈期待可能性〉の項に譲るが,そこでは,たとえ,故意・過失という心理的事実があっても,行為者に当該犯罪行為以外の行為をとるべきでありかつとりえたことを期待しうるような情況がない限り(〈付随事情の正常性〉がない限り),これを非難することはできず,責任はないとされ,逆に,適法行為の期待可能性が存在するにもかかわらず,みずからの意思に基づき違法行為を選択・実行したことに対する非難が責任ととらえられるに至ったのである。…
※「期待可能性」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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