日本歴史地名大系 「木島村」の解説 木島村きじまむら 静岡県:庵原郡富士川町木島村[現在地名]富士川町木島岩淵(いわぶち)村の南、富士川右岸の河岸段丘上と雨乞(あまごい)山の山腹に位置する。慶長一四年(一六〇九)の屋敷検地帳(芦川家文書)によれば、田四町三反余・畑一一町九反余、家数二六、うち一三軒は雨乞山山腹の室野(むろの)にあった。元禄郷帳によると高一四二石余。領主の変遷は岩淵村に同じ。宝暦六年(一七五六)の家数六二、馬五・牛一〇(「高反別明細差出帳」富士川町史)。 木島村きじまむら 群馬県:佐波郡境町木島村[現在地名]境町木島伊与久(いよく)村の南東に位置し、東は新田(につた)郡矢島(やじま)村。平坦地で前橋道が通る。嘉応二年(一一七〇)の目録をもとに享徳四年(一四五五)に作成された新田庄田畠在家注文(正木文書)に「さかいにとらる」として「きしまの郷 田二町一反三十五たい」と記す。年月日未詳の新田庄知行分目録(同文書)では西(さい)(佐位)庄の押領分に「木島郷」がみえる。 木島村きじまむら 新潟県:三島郡寺泊町木島村[現在地名]寺泊町木島西は夏戸(なつど)村、東は硲田(はざまだ)村。島崎(しまざき)川の沖積平地のほぼ中央に位置する独立小丘陵に発達した集落。標高三七メートルの丘陵上には木島城跡があり、夏戸城の一支城として、戦国期に志田(志駄)氏によって築かれたと考えられる。明応六年(一四九七)一二月二一日の志駄景義譲状(西条文書)には「西古志郡内吉竹・夏戸」の四至のうちに東の境として「木島」あるいは「下ハ木島河ト島崎ノ落合迄」と記される。正保国絵図に高二二〇石余で幕府領。慶安二年(一六四九)以後幕末まで村上藩領。 木島村きじまむら 新潟県:上越市旧高田市地区木島村[現在地名]上越市木島島田上(しまだかみ)新田村の西から南にかけてに位置。正保国絵図によると高一四七石余。天和三年郷帳では五九九石八斗余、ほかに新田分七三石二斗余。用水の大部分は十ヵ村(じつかそん)用水に依存し、文化九年(一八一二)の水掛高五六九石(笹井千代文書)。「頸城郡誌稿」によると諏訪大明神・経塚神明宮があり、後者について「是ハ元文年中、松平越中守様関川通田井村・木島村出入ノ節、御裁許絵図面目当印ニ宮一社御建被成候」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by