本町一丁目(読み)ほんちよういつちようめ

日本歴史地名大系 「本町一丁目」の解説

本町一丁目
ほんちよういつちようめ

[現在地名]中央区日本橋本石町にほんばしほんごくちよう二―三丁目

江戸城常盤ときわ橋御門外に一丁目を起こして東へ四丁目まで続く本町の西端に位置する。東西の本町通の両側町。北は本石町一丁目と金吹かねふき町、南は本両替もとりようがえ町と本革屋ほんかわや町。江戸時代以前は福田ふくだ村の内だったという(落穂集)徳川家康の関東入部後最初に着手した町割が本町である。常盤橋御門外から東へ道幅六間の本町通を通し、幅が各四丈・三丈・二丈横町を付けながら南北両側に四〇丈ずつ町地を割って、翌一九年には商人を居住させている。町割一間は京間(六尺五寸)の王朝都制に準拠。橋や河川改修、旧村や寺院の移転も併行して行われた(「深谷記」など)町名主草創名主が益田文左衛門。その後は山本伝左衛門らが勤めた(宝暦七年万世町鑑など)。安永三年小間附町鑑によれば京間一二七間の公役金を負担した。

本町一丁目
ほんまちいつちようめ

[現在地名]鳥取市本町一丁目・二階町にかいまち一丁目

本町二丁目南東に続く両側町で、片原かたはら一丁目の南西裏の通りにあたる。南東は若桜わかさ往来に面する。町名の由来は、池田光政が鳥取入封のとき播磨姫路の町名を移したとも(因州記)、曲輪の外の初めの通りは片原町で、その次の通りから両側町が始まることから本町とよぶようになったともいわれる(因幡志)。「鳥府志」はこの二説をあげて「因州記」の説に従うと記す。

本町一丁目
ほんまちいつちようめ

[現在地名]東区本町一丁目

本町通の両側町で、東横堀ひがしよこぼり川に架かる本町橋西詰より八百屋町やおやまち筋までの間。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に町名がみえる。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数三二・役数三七役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は福島屋正意。延享版「難波丸綱目」に唐和呉服物仲買・下駄・絵具があげられ、朱座に一、蔵米蔵詰納宿一、伊勢志摩国問屋・関東筋問屋井筒屋三右衛門、紀伊国問屋・砥石問屋木津屋伝右衛門、三十石船乗場・京飛脚和泉屋五兵衛、播磨国問屋二、紀伊国問屋・関東筋問屋・煙草仲買新問屋・伊勢御師宿・筆師各一が載り、「浪花当時人名録」に医師谷川良順がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報