幕末の眼科医。徳川将軍家奥医師。安芸(あき)国(広島県安芸高田(たかた)市吉田町)の人。青年時代、大坂の楢林(ならばやし)塾、京都の和田東郭(とうかく)(1744―1803)らに学び、一時、生地で開業したが、ふたたび大坂に出て、三井元孺(げんじゅ)(1766―1833)、高充国らから眼科新知識を得て帰郷、開業した。1803年(享和3)広島藩の藩医に登用せられ、眼科医として名声を博した。江戸に移り、1810年(文化7)幕府奥医師、1816年法眼に叙せられた。晩年は、シーボルト事件に連座して、財産没収、改易、終身禁固刑となって、嘉永(かえい)元年87歳で没。
光学的虹彩(こうさい)切除術の前駆と考えられる仮瞳孔(どうこう)手術を考案し、江戸参府に随伴して江戸にきたオランダ商館医シーボルトに切望して散瞳薬の伝授を受け、その謝礼として当時国禁の品であった将軍家紋服を贈ったことが、シーボルト事件で発覚して処罰された。
[福島義一]
(福島義一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸後期の眼科医。安芸国の眼科医の家に生まれ,名は義寿,桑翁と号した。蘭方翻訳医書を読破して西洋眼科の学識を深め,眼球解剖を試みて実技を磨いた。杉田玄白塾に出入りして江戸で名を知られるようになり,1810年(文化7)広島藩医から幕府奥医師に抜擢(ばつてき)され,さらに法眼・本科医員並になった。シーボルトから散瞳薬伝授と引換えに葵紋服を贈ったことからシーボルト事件に連座し改易となり,土地家財いっさいを没収された。
執筆者:宗田 一
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