デジタル大辞泉
「土生玄碩」の意味・読み・例文・類語
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はぶ‐げんせき【土生玄碩】
- 江戸末期の眼科医。安芸国(広島県)の人。江戸幕府の侍医。シーボルトに教えを受け、その薬方と交換に、将軍から拝領した葵紋服を与えて罰せられた。宝暦一二~嘉永元年(一七六二‐一八四八)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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土生玄碩
はぶげんせき
(1762―1848)
幕末の眼科医。徳川将軍家奥医師。安芸(あき)国(広島県安芸高田(たかた)市吉田町)の人。青年時代、大坂の楢林(ならばやし)塾、京都の和田東郭(とうかく)(1744―1803)らに学び、一時、生地で開業したが、ふたたび大坂に出て、三井元孺(げんじゅ)(1766―1833)、高充国らから眼科新知識を得て帰郷、開業した。1803年(享和3)広島藩の藩医に登用せられ、眼科医として名声を博した。江戸に移り、1810年(文化7)幕府奥医師、1816年法眼に叙せられた。晩年は、シーボルト事件に連座して、財産没収、改易、終身禁固刑となって、嘉永(かえい)元年87歳で没。
光学的虹彩(こうさい)切除術の前駆と考えられる仮瞳孔(どうこう)手術を考案し、江戸参府に随伴して江戸にきたオランダ商館医シーボルトに切望して散瞳薬の伝授を受け、その謝礼として当時国禁の品であった将軍家紋服を贈ったことが、シーボルト事件で発覚して処罰された。
[福島義一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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土生玄碩 (はぶげんせき)
生没年:1762-1848(宝暦12-嘉永1)
江戸後期の眼科医。安芸国の眼科医の家に生まれ,名は義寿,桑翁と号した。蘭方翻訳医書を読破して西洋眼科の学識を深め,眼球解剖を試みて実技を磨いた。杉田玄白塾に出入りして江戸で名を知られるようになり,1810年(文化7)広島藩医から幕府奥医師に抜擢(ばつてき)され,さらに法眼・本科医員並になった。シーボルトから散瞳薬伝授と引換えに葵紋服を贈ったことからシーボルト事件に連座し改易となり,土地家財いっさいを没収された。
執筆者:宗田 一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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土生玄碩
はぶげんせき
[生]宝暦12(1762)/明和4(1767).安芸
[没]嘉永1(1848)/嘉永7(1854).8.17. 江戸
江戸時代後期の漢蘭折衷派の医師。名は義寿,桑翁と号した。寛政の中頃,大坂で開業中,白内障に対する改良穿瞳術を考案した。この時期に高充国に蘭学を学び,蘭方を志すにいたった。文化5 (1808) 年,南部侯夫人の眼疾の治療に招かれて江戸に出て,迎翠堂を開いて名声を博した。同7年将軍徳川家慶の侍医,同 13年法眼。文政9 (26) 年,P.シーボルトに散瞳薬の教えを受け,その返礼に葵の紋服を贈った。これがシーボルト事件のとき発覚して下獄。天保8 (37) 年,将軍の眼疾をその子玄昌がなおしたことで獄を解かれたが,公然と医療行為をできず,隠棲した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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土生玄碩 はぶ-げんせき
1762-1848 江戸時代後期の医師。
宝暦12年生まれ。和田東郭にまなぶ。のち西洋眼科をおさめ,安芸(あき)広島藩医から幕府奥医師となる。法眼(ほうげん)。散瞳(さんどう)薬の処方を伝授されたシーボルトに葵(あおい)紋服をおくったためシーボルト事件に連座,処罰された。嘉永(かえい)元年8月17日死去。87歳。安芸出身。名は義寿。字(あざな)は九如。別号に桑翁。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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